草創期の慶應義塾

東大初代総長も輩出、草創期の慶應義塾


東京大学は戦前から現在に至るまで政官財の上層部に人材を送り続けたというイメージがある。しかし、そうだろうか。そうではない。
実際にはそうなるまでにずいぶんと紆余曲折があったのだ。
東京大学が成立したのは明治10年である。官僚を輩出する東大がなかった明治の初期から明治14年頃までは慶應義塾から明治政府の官僚が多く輩出された。
その当時、学校としての体裁を十分に整えていたのは慶應義塾しかなかったことによる。また、華族を教育するための学習院が京都にでき、その後、明治3年に廃止された後、華族は子弟を留学させることも多かったが、私塾では慶應義塾が選ばれた。ただし、明治10年に学習院が成立し、東京の神田小川町に設置されたので、華族は移っていった。
東京大学は、諸学校の統合によって成立した。まず、幕府には昌平坂学問所と蕃書調所があった。このうち、昌平坂学問所は、国学と漢学を行なう「本校」とされ、蕃書調所は時代の変化に即して洋書調所と改称され、後に「大学南校」と呼ばれるようになった。後に、これは開成学校と改称される。種痘所(適塾出身者が現在の秋葉原付近に開設)を起源とする医学校は「大学東校」と呼ばれるようになった。後に、東京医学校と改称される。これら3つが本来の東大の源流であるが、かなりの間、統合されないまま、併存していた。
ただ、明治3年になり、本校の中の国学派と漢学派が抗争を繰り返すようになり、政府は本校を廃止するに至った。これは、京都における学習院の廃止とも無関係ではない。京都学習院でも同様の対立、葛藤があったし、それが廃校の原因の1つだったからだ。
大学南校は、英語、ドイツ語、フランス語を教える程度の語学学校という状態であった。他方、大学東校は、蘭方医の伝統があり、それなりの水準には達していた。
明治6年になり、専門学校令が公布され、それまで私塾だったところなどがこの専門学校という枠に収められることになった。後に東大となる、大学南校はこれに伴い、開成学校と呼ばれるようになり、大学東校は東京医学校と呼ばれるようになった。
そして、明治10年に、2つの学校は合併し、東京大学(旧制)となったが、新しい校舎が作られたわけでもなく、それぞれの校舎でそのまま教育を続けたので、外見上、何の変化もなかった。
大学を総括する役職として総理が置かれたが、初代総理には加藤弘之が就任している。この時、慶應義塾出身者の濱尾新がその補佐となっている。つまり、東大は設立当初から重要なポストに慶應義塾出身者を擁していたことになる。教員にも義塾出身者が多かった。
さて、東京大学が体制を整え、法学部、文学部、工学部、医学部からなる帝国大学と改称されたのは明治19年である。
この時、初代総長になったのが渡邊洪基で、やはり慶應義塾出身者で当時、当時39歳だった。渡邊は外務省官僚、20歳代で岩倉使節団に参加し、38歳の若さで東京府知事に就任していた。東大総長時代には学習院次長も兼務している。福澤が草創期の文部省に送り込んだ官僚の一人だ。
また、その後も、濱尾新が帝国大学(第3代と第4代)/東京帝国大学の総長に3度にわたり就任している。また、濱尾は東大の前身の学校である開成学校の校長心得や、東京美術学校(現在の東京芸大)の創設に関わり、校長代理にもなっている。濱尾もまた文部官僚の一人だった。

<東京大学の歴代総長>
大学名称 役職 就任年月 氏名 出身校ないし背景
東京大学 総理 明治10年04月 加藤 弘之 出石藩藩士
帝国大学 総長 明治19年03月 渡邊 洪基 慶應義塾出身
総長 明治23年05月 加藤 弘之 出石藩藩士
総長 明治26年03月 濱尾 新 慶應義塾出身
総長 明治30年11月 外山 正一 蕃所調所出身
東京帝国大学 総長 明治31年05月 菊池 大麓 蕃所調所出身
総長 明治34年06月 山川 健次郎 エール大学卒
総長(兼) 明治38年12月 松井 直吉 大学南校出身
総長 明治38年12月 濱尾 新 慶應義塾出身
総長 大正02年05月 山川 健次郎 エール大学卒
総長 大正09年09月 古在 由直 駒場農学校(後の北大)卒
総長 昭和03年12月 小野塚 喜平次 東京帝大卒
総長 昭和09年12月 長與 又郎 慶應幼稚舎、東京帝大医学部卒

東大が前身の学校を含めて総長を輩出するようになったのは、外山正一が初めてで、それは明治30年以降のことである。東京帝大出身者が総長になったのは昭和になってからのことで、それ以降も長與又郎は東大出身ではあるが、同時に慶應義塾幼稚舎出身である。
日本は、明治時代、英国の社会学者、ハーバート・スペンサーにずいぶん影響を受けた(初代塾長だった浜野定四郎も、スペンサーの本を何冊か翻訳している)。外山もスペンサー一辺倒の三文社会学者だった。
スペンサーは学校には一切通わず、本はたくさん書いて、米国でもよく読まれていたが、大学などで教えたこともない市井の文化人だった。
ところが、オーギュスト・コントの実証主義、近代社会学の創始者/エミール・デュルケム、ドイツのマックス・ウェーバーまで目配りして社会学を体系化したのは大正時代の高田保馬、あるいは和辻哲郎(『倫理学』)まで待たねばならなかった。
草創期の東大には総長だけでも多くの慶應義塾出身者が関わっている。また、詳細は資料がなく、不明なのだが、明治14年の政変で、英国型の議会制民主主義の導入を強く主張していた大隈重信が下野した際、そのブレーンと見られた福澤諭吉も明治政府と距離を置くようになり、この時、政府を自発的に辞職した慶應義塾出身者も多かった。
その後、明治政府は、危険人物である大隈重信を警戒するようになり、大隈は自ら私財を投げうって設立した東京専門学校(後の早稲田大学)の開講式にも出席できない状況だった。また、官立学校の整備に関して福澤諭吉は積極的に協力したにもかかわらず、明治20年代には私学への圧力が強くなった。これには訳がある。
この東京専門学校の設立には、明治政府に極めて大きな衝撃を与えた一事件だったのだ。まず、長年、官僚として活躍してきた小野梓が大隈と行動を共にし、この学校の実質的なリーダーとなったこと、また、草創期でまだ卒業生の少なかった東京大学からごっそりと卒業生を講師として雇ったことだ。明治15年、法学部卒業者8人のうち3人、文学部卒業者4人のうち3人が、この反体制的な大隈の学校の教員となった。これには東大文学部で幅広い分野で教鞭を執っていたラフカディオ・ハーンも、唖然としたようだ。
明治政府の取った嫌がらせの1つは、徴兵制だった。
明治の初期からずっと官立学校の一部と慶應義塾には免除が認められていたが、明治12年、学生の徴兵は免除されるようになった。しかし、明治16年になり、官立学校に限って徴兵制を免除することとされ、私立学校からの退学者が続出し、「官尊民卑」であるとの批判も起こった。この問題は明治22年に改訂され、ともに免除されることになったが、その間に閉鎖に追い込まれた私塾も多かった。
また、東京帝国大学法学部は、いくつかの私立法律学校を管理監督下に置いていた。現在の主要私学に当たるものだが、現在の名称で言えば、専修大学、明治大学、法政大学、日本大学、中央大学である。これに加えて、東京専門学校(早稲田大学)が指定校になっており、法律科、政治科、理財科(経済科)は、高等文官試験受験の指定校になっていた。
ただ、このうち、早大は専任教員を抱えており、東大法学部の管理下とはなっていなかった。ただし、東京専門学校が開設された際、12名しかいなかった東大の卒業生のうち、新卒の7名が任官を拒否して大隈の学校に講師として参加したのだが、法律系の教員は後に一部だが、早大を去って、英吉利法律学校(現在の中央大学法学部、慶應義塾の分校だった三菱商業学校の跡地に設置されたので、福澤も開講式で祝辞を述べている)に移っている。
また、私学に政府のスパイが入ってきて、政府を批判する発言をしていないか、官憲が入るようにもなった。こうした影響で、学生数が減少し、また、設立されようとする東京大学に莫大な資金が投入される一方で、慶應義塾は、深刻な財政難に陥り、福澤自ら、資金援助を勝海舟などに交渉したが、難航し、最終的には島津藩の援助を取り付けるに至った。
その上、優秀な門下生は、後に東大になる大学南校や大学東校、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)の教授として引き抜かれていくという現象も起こっていた。つまり、初期の東大の有力教授には、慶應義塾出身者がかなりいたということである。
福澤諭吉とその弟子は、東大以外にも多くの学校の設立や初期の立ち上げに関与した。既にない学校もあるが、列挙しておく。
1三菱商業学校:これは財閥三菱のための商業学校だったが、慶應義塾の分校で、教員の多くは掛け持ちで、商業実務を丁寧に教えていた。
2明治義塾:三菱商業学校の校舎を夜間に利用して開設された学校で、ここには、自由民権運動家が集まり、ともに学んだ。38歳で夭逝した馬場辰猪(「気品の泉源・知徳の模範」と福澤が数ある弟子の中で、その学識を高く評価した人物の一人)が有名な人物の一人(馬場は社会有機体説としてデュルケムがスペンサー批判を行なう前に、国家社会は民主主義、自由主義で変革できるという見解を示していた)。また、犬養毅(塾政治学科中退後、後に閣僚、総理などを歴任、515事件で暗殺)もその同志だった。
3商法講習所(後の東京高等商業学校、現在の一橋大学):この学校は当初、私学として設置され、その趣意書は福澤が草稿した。開設式にも参加し、教員も当初、塾から多く送られた。しかし、大正期には、慶應義塾と東京商業学校は、特に三井財閥を舞台にして学閥抗争をしたというエピソードもある。
4大阪商業講習所(後の大阪商科大、現在の大阪市大):これは、大阪市からの要請もあり、初代から5代目くらいまでの校長、初期の教員を派遣して立ち上げた。大阪市大は卒業生の活躍度、学部の充実度、研究水準などから言って、有力国立大(神戸、北大、筑波など)とほぼ互角であるが、戦後は長く学生の左翼運動の呪縛で暗いイメージが続いている。
5専修学校(現在の専修大学):もともと慶應法律科夜間部だったのだが、それが廃止され、その跡地に、その当時にスタッフと新しいスタッフを加えて開講した。福澤も開講式に出ている。当初は法律科の学校だが、間もなく、理財科だけの学校になり、理財科の名称では日本で最初の学校である。
6英吉利法律学校(現在の中央大学法学部):三菱商業学校が廃止された後、その跡地に設立された。東大法学部傘下で既にあった明治と法政という2つの法律学校はいずれもフランス法が主だった。この学校は念願の英米法を主とする法律学校で、後に主流派となり、明治の後半から昭和初期の法曹界や官界に送った人数では他の法律学校を圧倒している。福澤も開講式で挨拶しているが、英米という点で接点があったこと、慶應の分校の跡地での開校という事情があったのかもしれない。
7神戸商業講習所:兵庫県と慶應義塾が共同で設立した我が国で2つ目の商業学校である。これは、後に神戸大学になったわけではなく、現在の兵庫県立神戸商業高校で、日本最古の商業学校である。卒業生の一人に、水島銕也(てつや)がおり、水島は、福澤の親族であるが、神戸商業学校を卒業した後、東京高等商業学校を卒業。新しくできた神戸高等商業学校(後の、神戸商科大学、現在の神戸大)の初代校長に就任する。水島を慕う経営者は出光佐三など多い。
 このほかにも私塾などの形で数多くの学校が作られ、ある時期は存在感を示した。福澤諭吉、そして、その慶應義塾、そして、その卒業生は明治から大正期にかけて教育や学校創設に大きな影響を及ぼしたと言えるだろう。
 入学するなり、いきなり臨時教員となった野口英世は有名だが、このような初等教育制度は福澤諭吉が適塾を参考に、塾生を全国各地に校長として派遣し、数年のうちに作り上げたものだ。
 なお、福澤自身、適塾に学んだが、2年で中退している。しかし、復学する際、学費がないと緒方洪庵に相談すると、塾長で来いと言われ、緒方の代行をするようになった。

3.理財の慶應と言われた時期の存在感
慶應義塾が大学部を設置したのは、明治23年(1890年)のことである。
この際、福澤諭吉がどの程度、深く関与したか不明なのだが、その10年前、明治13年(1880年)頃には、慶應義塾の運営は、側近だった渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に任せていたというから、大まかなことは合議で決められ、重要な事項についてのみ報告されていた程度だったかもしれない。
なぜ、このような疑問を最初に書くか、というと、福澤は、後に商業系の学校の設立支援には熱心だったことが明らかなのに、塾の大学部は、文科・理財科・法律科で開学されたからである。福澤の理想からすると、理財科と理学科を設置するのが妥当な線だと思われる。
医学所である適塾で自然科学の勉強から学問を始めた福澤は、社会科学である、経済学、社会学(主にスペンサー)、経営学、商業学、あるいは、商業実務である簿記会計には早急に導入し、普及すべきと考えていたことが明らかだ。
また、法律学も必要だと考えただろう。
しかし、人文科学に関しては懐疑的で、地理、地誌、歴史学、一部の哲学・思想の必要は認めていたが、外国語を学んで文学書を楽しむなどまかりならないと明言している。また、三田に塾生による文芸雑誌ができたという噂を聞くと、ひどく不愉快になって、「まだわかっていない奴がうろついておるな」と語ったという。
このような福澤の大学観、学問観からすると、学部構成的には、現在の一橋大学が一番フィットしている。一橋は、商学部を中心に、経済学部、法学部、社会学部とあるが、社会学部は、地域研究と言語文化、歴史研究、社会問題全般の研究を行なっている。少なくとも文学部と明らかに異なる。
いずれにしても、慶應義塾は当時、他大学ではできなかった形で教員を招聘する。それは、米国最古の大学で威信もトップだったハーバード大学の総長に手紙を送り、教員の派遣を要請したのである。そして、現職のハーバード大学の教授が赴任し、科目や講座を分担することになった。その結果、3つの学科になったのか、予め3つの学科が決められていたかは不明だが、時期的には高等教育では先行していた東大と互角のレベル、非常に高い教育を行なえるようになった。
とはいうものの、冒頭に疑問を呈したように、文科には学生がごく少数しか入っていない。実学の提唱者で有名な福澤諭吉の学校で、文学や歴史、文芸などを学ぶということに違和感があったのではないか。
他方、この時期、まだ草創期ではあったものの、東京専門学校(早大)には坪内逍遥を中心とする文学科ができ、英文学、国文学、江戸の戯作、演劇などが幅広くたしなまれ、それなりの求心力があった。これは、諭吉の最も嫌う世界である。しかし、早大の文学科は長らく、文学、とりわけ、創作・文芸・演劇などの分野で中心的な位置を占めた。これは、語学と文学を厳格に教育した東大とは異質の世界で、その大衆的、庶民的な勢いは群を抜くものだった。
また、法律科にしてもそうで、東大(後に東京帝大)法学部が圧倒的な力を持ち、私立の法律学校を管理監督下に収め、それ以外で高等文官試験の受験資格があるのは、後に多少増えたが、早大のみだった。東大ですら日本語での授業を行なうようになってきつつあった中、慶應義塾の大学部法律科は指定校外で、しかも、英語で授業が行われる別天地だった。早大は開学当初から、すべて日本語で講義がなされた。
慶應義塾からは、法律科の知識を活かして活躍する分野に進む道は、大学部設置の時期に先立つ頃、先行きは明らかに厳しいものと見えたはずだ。そして、実際、法律科の在籍者も長年にわたり数人に留まり、数年後には政治学科が創設されるが、それを併せても10名を超えることなく、その半分ということもあった。つまり、慶應義塾は法律科、政治科に関しても振るわなかかったのである。
結局、大学部発足当初から、理財科がその中心になり、明治35年当時の私学の在学者が明らかにされており、この当時、早大が2700名なのに対し、慶應義塾は380名程度だったようだが、360名超が理財科だったものと推測される。
その後、早大は、天野為広を中心に商科を設置し、多くの学生を集めた。学生数だけで大学は語れないが、早大の圧倒的求心力は明治の終わり頃には、決定的なほど、他校を凌ぐものだったのだ。それは否定できない事実だ。早大はいつしか7割以上が商科という大学になっていた。
経済学、あるいは経済という訳語は福澤諭吉が造語したものである。しかし、それに込めた意味は、経世済民というものだった。そこで、実学的な意味で理財学という名称を用いることにした。大学で理財学を初めて教育したのは東大の文学部で哲学政治学及び理財学科が設置された(明治12年/1879年)。私学では専修が最初になる。
東大をはじめとする官立学校は、多くの官僚、一流とされる民間企業の管理職や経営層、技術者、医師、研究者などを輩出してきた。しかし、東大以外の他の官立学校を調べても、際立った起業家はほとんどと言っていいほど輩出していない。彼らは、最初から高い俸給で雇ってくれ、帝大や官立出身であることで優遇され、生涯にわたって安定雇用する組織に進んでいったのだ。長い歴史の中で、ほんの数人しかいないのだ。
東大で起業家精神を発揮したというと、日本マクドナルドの藤田田、学生起業家だったリクルートの江副浩正、ライブドアのホリエモンなどが思い浮かぶが、どれも胡散臭く、経済事件となって幕引きとなった。
これに対し、慶應義塾は、日本の財閥系企業をはじめ、産業のインフラになる企業の起業家が目白押しであり、明治の初期から終戦直後まで、その中心を担ってきたと言っても過言ではない。
残念なことに、多数の卒業生を送り出したはずの早大は、実業界で先陣を切るような人物をほとんど出していない。その実績は明治大学にすら劣る。
慶應に関して、筆頭に中村道太をあげるが、丸善社長、横浜正金銀行(後の東京銀行、現在の東京三菱UFJ)の初代頭取、東京米商会所頭取を歴任した。
また、荘田平五郎は、東京海上、明治生命、明治火災、日本郵船などの創立に参画し、これらを主宰、三菱合資会社支配人となった。
また、阿部泰蔵は、22歳で大学南校(東大の前身の1つ)の教授になり、明治14年、明治生命を創立し、初代頭取、生命保険協会初代理事長に就任した。
また、小泉信吉は、塾に学んだ後、英国に留学、帰国後、横浜正金銀行副頭取、大蔵省主税官を経て慶應義塾塾長になる。
三井、三菱という今日でも代表的な財閥の中核企業が塾出身者によって創設され、相互のつながりによって発展してきたことがこれだけでもわかる。
波多野承五郎は、塾を卒業後、塾の教授になり、その後、東京市会議員になり、外務省官僚として天津総領事、その後は日本新聞社社長、三井銀行、王子製紙などの役員を兼務、その後、衆議院議員になった(今では考えられないキャリアなのだが、当時の慶應義塾にはこのような人がいた)。
そして、著名な中上川彦次郎は、明治政府に官僚として仕官した後、時事新報、山陽鉄道会社の社長を歴任、その後、三井に入り、中心的な人物となった。中上川は、官僚経験をした以外は民間では、社長、支配人などしかやっていない。これもまた、今では考えられないキャリアだ。
また、塾における学びと教育が実業と密接不可分だったことを示す人物に門野幾之進がいる。門野は、塾の教頭を長年務め、教育に当たったが、その後、千代田生命と千代田火災を創立し、自ら経営に当たり、その後、貴族院議員になった。
慶應義塾は実業界にだけ人材を送っていたわけではない。経済官僚や日銀総裁などにも人材を送っていた。例えば、山本達雄は、日本郵船を経て日本銀行に移り、日銀総裁に就任した。そして、西園寺、山本、原の各内閣で、蔵相、農商務省を歴任した。
また、池田成彬は、塾を卒業後、ハーバードに留学し、卒業、帰国後は時事新報の記者になり、その後、三井銀行へ入行、常務を経て、日銀総裁に就任。その後、蔵相、商工大臣を兼務した。まさしく、財界と経済官僚を歴任したことになる。
また、最近はやや小売業界における地位を下げた観もある百貨店は大半が慶應出身の経営者、役員が占めることで有名だ。
日比翁助は最初、モスリン商会支配人を経て三井銀行本店副支配人となり、その後、今の三越の専務となって、近代的なデパート経営の先駆者となった。
同じく三井で活躍した藤山雷太は最初、長崎県議を2期やり、その後に三井銀行に入行した。その後、王子製紙専務、大日本精糖社長、東京商工会議所会頭を歴任した。
武藤山治も最初、三井銀行に入行したが、その後、鐘紡に入社し、社長になった(戦時中の鐘紡は軍需工場のような性格を持ち、現在とは比較にならない巨大な製造業だったので、現在の日立、東芝、三菱重工を合体させたような企業体だった)。
現在では理工学部を持ち、その威信もそう悪くない慶應義塾だが、戦前は工学部すらなかった。
藤原銀次郎は、三井物産を経て王子製紙の再建に成功、製紙王と呼ばれるようになった。その後、国務大臣等を歴任。塾に大学ごと寄付するつもりで、一旦は藤原工業大学を創設し、第1回の卒業生が出る際に、慶應義塾に移管し、それがそのまま慶應の工学部になった。後に、理工学部へと発展的改組された。
今となっては、鉄道があり、その沿線が宅地開発されていて、遊園地や野球場があるというのは当たり前だと思うかもしれない。しかし、これは、塾出身の小林一三が全て最初に構想したことである。
小林は文学青年だったが、卒業後は三井銀行に勤める。その頃は冴えない銀行員だったらしい。その後、仲間と大阪の箕面(みのお)と大阪市内の間に鉄道を敷く。これが後に阪急電鉄になる。鉄道は、京都、神戸、宝塚と3方向につながっているが、小林の関心事は、終点に作った少女歌劇団(宝塚歌劇団)に人を集めることだった。
また、沿線の土地を住宅地として開発し、関連会社で販売するなどした。また、ターミナルデパートの経営にもアイデアを凝らし、阪急百貨店の特別食堂では、ライスカレーなど庶民でも手の届く、でも、少しひとひねりしたヒット商品を連発し、大阪を頻繁に賑わせた。 
小林は、阪急グループの大成功で、大物財界人との地位も固め、近衛内閣では商工大臣ともなった。しかし、戦後は劇団のための脚本を書くなど興行を成功させることに心血を注いだ。小林の発想をまねて、首都圏、関西にたくさんの私鉄が敷かれ、同様の発想で都市計画が展開されたのである。つまり、私鉄のすべてが小林の真似をしたと言っても過言ではない。
戦前活躍した塾関係者でも型破りなのは、松永安左エ門である。
卒業1年を前に、中退。ただ、福澤には相談し、「卒業などしなくてもよい」と助言されたという。しかし、紹介もあり、日銀に勤務、ここも1年で退職。この当時、日銀は上から下まで慶應卒一色だったらしいが、それが松永には面白くなかったようだ。
諭吉の身内である福澤桃介と組んで石炭販売で巨利を得て、これによって福岡市の鉄道会社を買収。これが九州電燈鉄道となり、さらに1922年(大正11年)関西電気と合併して、東邦電力を設立し、自ら副社長になった。1928年(昭和3年)には社長に就任し、一都十一県に電力を供給するまでになった。後に、首都圏にも進出し、全国的に展開するに至る。
戦後は地域独占の形で分割されているが、元は松永が徒手空拳で創業した一大事業だったのだ。まさに、電力というインフラは松永一人が作り上げたと言っても過言ではない。
戦後、日本で急成長し、時代の寵児だった会社もある。
パナソニックや本田技研がその例だろう。その創業者の多くは高学歴ではない。また、慶應以外の私学、あるいは、官立学校で起業を促す雰囲気は乏しいと言ってよい。
塾からは戦後も起業家が生まれており、また、創業者が子弟にも塾で学ばせたいと考える傾向が強いことから、オーナー会社の多くに慶應出身のトップが多い。
ただ、戦前は、口利きだけで中退しても日銀に入れたり、中途採用で銀行に入ったり、官僚からいきなり社長で入社したり、今では考えられないキャリアがあったようだが、現在ではあり得ない。また、時期によっては、塾生は小学校設置のために手弁当で全国に行き、自ら校長になり、数カ月で後任と野口英世のような児童を発見し、臨時教員に抜擢して回った。
野口英世は典型的な偉人とされているが、学校で学んだ経験はほとんどない。小学校は入るなり臨時教員、後に医師資格を取るために、現在の済生会病院にあった済世学舎で医術を1-2年、学んだだけだ。済世学舎は当時、東大医学部と慶應義塾の医学所以外で医師免許を取った人物の6割以上を占める老舗だった。廃校になったのだが、現在の日本医大がその伝統を継ぐという。
また、東京慈恵医大も、元は慶應義塾の分校から派生した学校らしい。
これは当時、慶應に限らないことで、東大法学部を出て財務省に入省し、30歳くらいで民間企業の役員とか、そんなキャリアは、その会社の創業者の身内でもない限り、あり得ないだろう。しかし、戦前はあったようだが、東大や今の一橋から、特筆すべき実業家、特に起業家は輩出されていない。
また、松永や小林は事業の特性上、多額の資金が必要だったはずである。どうやって、その資金をやりくりしたのか、想像すると、よほど幸運が重ならないと難しい。それは、三田のつながりなのかもしれない。
日本で今後、起業を考える若者には、そうしたハードル(資金調達などの支援)をどう乗りこえるか、大きな課題になるかもしれない