三商大と福沢諭吉・慶應義塾

三商大(一橋・神戸・大阪市大)と慶應義塾
封印された福澤諭吉とその弟子たちの影

永井隆雄

 この小稿は、尽くされたものとは言えないが、橘木俊詔氏の三商大に関する近年の書籍に触発されて書かれたものである。橘木氏は、意識されているのか、単に調べようとしないのか、あるいは、何か深層心理があるのか、慶應義塾のことを軽んじて大学論をなさっているように見受けられる。
 もともと野球で始まった「早慶」という言葉を連発されるのだが、明治以前の10年と明治になって以降の20年ほどの間、およそ30年の間に起った、目まぐるしい状況をおもんぱかっているのか、疑問である。
 野球の早慶戦が始まったのは1903年(明治36年)のことである。ちなみに、明治34年の各専門学校(名称は、この時点で早稲田大学、慶應義塾)の総人数は早大の3500名あまりに対して、慶應はその1割程度だった。また、この時点での、両大学の在校生は、早大の7割以上が商科(商学部)で、慶應は理財科(後の経済学部・商学部)が9割以上だった。
 この当時の大学の評価はどうであろうか。
 早大は、庶民から圧倒的に支持を得ていた大隈重信が創設した、日本語で専門的な学問を学べる、そして、講師・教員は多くが帝大卒ながらサービス精神旺盛というイメージの、庶民的な学校だった。
 これに対して、慶應義塾は、この時期には過去の人となっていたものの、まだ、近代化における圧倒的な知識人である福澤諭吉の創った学校で、明治初期には、その後にできる学習院に代わって華族が多く学んだところであり、その学生(塾生)が非常に厳しい、現代の予備校のような修学をし、全国の小学校の創設のために各地へ校長・教頭などの肩書で赴任させて初等教育をあっという間に作らせた学校であり、さらに、その当時、東京帝大と京都帝大となった元の帝国大学の初代総長(渡邊洪基)を輩出し、初期の東大の教員を多数送り出した学校、またさらには、多くの実業人、財閥の大物を輩出した学校で、その評価は低迷しつつあったものの、早大とは比較にならなかったはずである。
 慶應義塾が、後に活躍する人材を送り出したのは、早大の前身である東京専門学校ができた明治15年よりも、さかのぼる10年以上前のことである。その時期に、大学教員から実業家、官僚から創業者、言論人から政治家などに転身した人材を多く送り出している。
 その一人は、加藤政之助で、大阪商業学校の創設に関与した人物であるとともに、その直截な言論活動が大隈重信の下野につながり、その結果、恩師である福澤諭吉も、明治政府と距離を置き、それ以降、慶應義塾が政府への官吏輩出を取りやめるきっかけになった人物もいる。
 慶應義塾は、明治に入って間もなく、福澤の画期的な近代化について描いた絵図に一般庶民が触発され、十数年にわたり、圧倒的な影響力で木鐸となったとされている。
明治6年(1873年)には、慶應義塾が大阪に、翌7年(1874年)には京都に、分校を作っている。そして、京都に分校を作った際に、その大阪校は徳島分校になった。
大阪慶應義塾(1873年 - 1875年) → 徳島慶應義塾(1875年 - 1876年)
京都慶應義塾(1874年 - 1875年)
 また、後に東大医学部に発展する種痘所/東京医学所の一方で、塾には医学所が置かれ、明治政府の文部省が設置された際、慶應義塾自体が「医学校」として登録されていたことはあまり知られていない。医学所が閉鎖されたのは、人材育成の優先順位からして、後回しでよいと考えられたのだろう。後に慶應義塾は、登録を怠った時期もあるが、専門学校令に基づく「諸学校」との届けとなり、語学などを教授する学校ということになっていた。
慶應義塾医学所(1873年 - 1880年/明治6年-13年)
このように、分校を作るほどの勢いがあった慶應義塾は、明治14年の政変で方向が変わり、実業家養成、実務家、起業家育成の学校と変貌していく。これは、慶應義塾に関する私の著作に詳細を譲りたい。
 ところで、私は高校生の時、教員から、「国公立」に行かなければ、研究者にはなれないし、有名企業には入れないと吹き込まれた。作家にしても、「私学」は少なく、本格的な作家は「国公立」出身なのだという。
 後に、これが、地域が変わると、また、教員の世代が異なると、「旧帝大」という括りが跋扈していることを知った(九州、東北、中部、札幌など)。
しかし、私は、旧帝大というグルーピングがいかにナンセンスかは、事実に基づき、別の書籍で解説している(『旧帝大と早慶』)。
 そして、そんな吹き込みをされながら、衝撃を受けたのが、1980-82年当時(筆者の高校時代)、神戸大学の学長が、あろうことか、「私学」の慶應出身だということだった。それは、医学部出身で、神戸大学医学部の医学部長からの横滑りだった(第7代:須田勇(1975年2月 - 1981年2月)出身部局:医学部)。
後に述べるが、神戸大学の前身である神戸高商は、福澤諭吉とのゆかりが深い。しかし、神戸大学関係者はそのことを強く否定する、あるいは、認識していない。
というのも、初代校長の水島銕也(みずしま・てつや)は、豊前中津藩の出身だったが、兵庫県の姫路に移り、同郷である福澤諭吉が開設に深く関与した神戸商業講習所に入学し、その後、中津藩の給費生として、「外国語学校付属高等専門学校」に入学した、とある。
水島は、福澤諭吉の遠縁に当たるらしい。
さて、ここで留意すべきことは、この学校は、現在の一橋大学と銘記されているのだが、正確には、東京外大のことである。後の東京高商(当時は高等商業学校)は、付属の外国語学校を持っていた。それは後に、東京外国語学校となる。
三田文学にゆかりのある永井荷風は、当時の名門、一高に落ちて浪人し、この外語学校に臨時入学し、全く通学せず、間もなく除籍されている。荷風の場合、臨時入学なので、試験も受けないで入れたのだろう。除籍といえば、太宰治など文人に少なくない。
水島は一旦、大阪府立商業学校(後の大阪市大)の校長心得に着任したが、いろいろな気疲れがあり、銀行員になる。その後、病気になり、再び教員に戻りたいと思っていた矢先、39歳の若さで神戸高商の校長にならないかと誘われ、着任する(明治35年/1902年)。
○水島に関するエピソード
http://www.shinshoudousoukai.com/old/html/31.files/31-02.htm
 さて、神戸大の全国区での評価は明らかに近畿ブロックとでは異なるだろう。なぜなら、神戸大は旧制からの伝統校ではあるが、首都圏を除く他のエリアで二言目に出てくる旧帝大ではないし、経済と経営を除くと、その他の学部は新制になってから急ごしらえされたもの、地元の公立学校を吸収したものだからである。また、理系は第2グループ、第3グループの国立大とさほど変わらない。研究予算からしても、旧帝大とは程遠い。
旧制を重んじるなら、教育学部は筑波と広島が老舗であり、これに準じるのがお茶の水と奈良女子である。そして、旧帝大のいくつかの大学に設置された教員養成系ではない教育学部である。少なくとも、これにあたるのは、私の知る限り、東大、京大、名大、九大である。これらは、GHQの方針で、反共産主義のために設置を要請されたものである。実際、東京教育大が田中角栄によって筑波大学に改組されたのは、レッドパージのためである。
対する神戸大の教育学部(現在の発達科学部)は、教員養成系学部である。これは全国の都道府県にあるものである。多くが公立の師範学校を起源にする。
いずれにせよ、出自を言えば、すぐ近くの阪大も、すでに府立としてあった医学校を国立の医学部にし、スタートした後発の帝国大。北大や九大は、それぞれ、東北、京大の分校としてスタートした。それは、都市の格式の差だろう。
大阪という都市からしてその格式は十分なのだが、今日に至ってもなお、京大との差、隔たりはなくなっていない。しかし、メンタリティ的には、京都帝大大阪医学校からの帝大というイメージになってしまっている。
大阪は長く商都であり、秀吉の頃、短い期間だが、首都だったこともある。しかし、100年スパンで見れば、その位置は転げ落ちる一方で、教育や文化への理解と価値に関しても尾差が大きく、京大が設立された際、その大半の費用が京都市によって拠出されたのに対し、大阪ではこのような投資はなされた試しはない。
長らく大阪府立大をリストラして大阪市大に吸収させることや合併させてコストを落とす議論が30年以上もなされてきた。合わせてより大きくするという発想は皆無だ。
大阪市では、財界人らが商都にふさわしい商業学校を設置したいと考えたが、市民からはそのようなものを求める気持ちはなく、結局、慶應義塾の関係者に依頼し、実際、設立時から5代目までの校長は慶應出身だった。しかし、大阪市大は、その略歴に、そのような事実を明記していない。
正確にはこうである。
前身校である大阪商業講習所があり、その設立は、慶應義塾出身の加藤政之助(新聞記者、後に衆議院議員・貴族院議員)が明治13年に開設し、スタッフも慶應から招聘し、5代目までの校長は塾から派遣されていたのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%95%86%E6%A5%AD%E8%AC%9B%E7%BF%92%E6%89%80
また、大阪市大の前身である、大阪市立大学(旧制)が設立されたのは、東京の高等商業学校に次ぐ第2の高商をどこに誘致するかで、神戸と大阪の財界が争い、結局、神戸と決まったので、それに対抗する形で、1928年(昭和3年)に旧制大阪商科大学が設立された。とはいえ、四半世紀の遅れを取り、そのころ、日本は戦時色を強めていく時期で、戦後、旧帝大と互角の総合大学になったのは、新制(昭和24年/1949年)になって以降である。
また、初期に設置された理工学部(大阪市立大)は、京大の滑り止めとなり、優秀な学生を集めた時期があり、俊才がずいぶん巣立ったようだ。これは、30年ほど前、栗本慎一郎氏がしていたものである。
神戸大学は、旧制からの格式で言えば、東京の一橋のように、文系中心に、経済、経営、法、人間社会程度で、収まっていれば、もっと威信が高かったかもしれないが、総合大学になり、立地が利して、北大や九大を、医学部を除けば超えるようになり、東北大と研究以外ではほぼ互角になった。
大阪市大は、誘致に成功していれば、官立の大阪高等商業学校ができ、それが阪大になり、医学部を持ち、それは京都大学と互角で、東大に別な意味で拮抗する大学に展開し、今の大阪市大や大阪府大は設立されていなかったか、されても、今のような形ではなかった。勢力が分散し、中途半端になり、ようやく世界基準で国内第3位の大学というポジションを得て、先行する東北や北大、九州、東工大などを凌ぎ、突き放した。その代り、神戸は神戸に県立か市立の商科大や外語大ができ、どうにか、兵庫県立神戸大ができた程度に終わっただろう。
いずれもイフの話だ。
そして、一橋。
まず、学閥史の先陣を切った慶應義塾の向こうを張った最初の大学が東京高商である。三井財閥では大正期、慶應閥の三井銀行、高商閥の三井物産が拮抗し、激しい抗争があったらしい。修業年限の長い東京高商は、初任給で慶應義塾の卒業生(普通部卒で、大学部には進まなかった人)を凌ぐこともあった。これが、後に、国立大の教育社会学者や労働経済学者に、慶應は一橋よりも格下に見られていたという根拠にもなる。しかし、実際には、戦前の財閥や政界、官界は人物本位で、推薦者がいれば、すぐに登用・採用され、今ではありえないキャリアを歩む人が多くいた。
一人だけ挙げるとすれば、中上川彦次郎で、卒後、官界で昇進し、民間企業に転出する際は社長で2回転し、その後に三井財閥の支配人になった。
明治期は、三井が三菱や住友を大きく上回る大財閥だった。
慶應義塾は、大学部理財科を創ったが、ややアカデミックすぎるという反省から、三菱商業学校を分校として設置した。この学校は、慶應義塾の教員が掛け持って教えることが多く、より実務的な教育を行い、そこから育った財界人もいるほどだ。この学校は廃校になったが、その跡地には、英吉利法律学校(現在の中央大学)が設置され、福澤も開講式に出席し、挨拶をしている。
そして、一橋の嚆矢、商法講習所は、1875年/明治8年、私塾として設立され、その趣意書は福澤諭吉が起草したものである。私塾は一旦、都立(当時の府立)になり、その後、国立/官立になった。
その内容はさておき、今の一橋大学のような学部構成を、福澤自身、構想していたのではないかと考えることがある。
一橋/東京高商は長らく、商科のみで、これは、福澤の考える実学に最も近しい。そして、その派生として、福田徳三のような本格的な経済学者が登場してくる。慶應義塾の場合、初期の文科が、本格的な経済学者、経済史家を輩出している。福田は、慶應義塾の経済学部の看板になった小泉信三や高橋誠一郎などの師であり、政治学科で教鞭を一時執っていた。
また、一橋は戦後、法社会学部を作り、後に、法学部と社会学部に分けたが、法学部は必ずしも官僚を目指さない法学部であり、社会学部の名称はどういう経緯なのか不明なのだが、地域研究や言語文化の研究を主として、社会学者をたくさん輩出しているというわけではない。一橋の社会学部は、諭吉の想定した実学に最も近い。
さらに、一橋は、一時、傘下に東京工大を持ったこともある。蔵前高等工業は、東京高商の下にあり、後に切離された。
私学の慶應義塾には、本格的な理工系学部は持てない時代が続いたので、分野を絞って、こじんまりした理工学部を作ることはあり得ただろう。
医師の社会的地位は高く、また、慶應医学部は、社会的にも貢献してきた。しかし、福澤自身、医学校である適塾に学び、塾長までやりながら、医師になってはいないし、福澤に学んだ医師は多いかもしれないし、本人も医師としての能力を十分、持っていたかもしれないが、医師としての活動はしていない。そんな福澤は、北里柴三郎との出会いがなければ、医学部を作るには至っていなかっただろう。福澤は、医学部よりも、北里大学にある理学部を義塾に持ちたかっただろうと想像する。
福澤諭吉の誤算は、いくつかある。
①弟子の提言で大隈重信が失墜し、下野し、玉突きで、自分も政府の仕事をやりにくくなったこと。つまり、早大が誕生する前に、諭吉はそれだけ巨大な弟子を世に送っていたこと。
②自ら筆を執り、趣意書を書いた学校は、幸か不幸か、諭吉のイメージに合った学校に発展し、諭吉と一心同体とみられる慶應義塾は、受験上、そのすべり止めに長らく甘んじていること。
③国費で作った大学はやはりすごいスピードで整備されていくと帝国大学の揺籃期をうらやんだ諭吉の想像を絶するほど、東大と帝大が真子(まなこ)・慶應義塾の前に立ちはだかったこと。
④親しくしていた大隈重信が自分の弟子の追及で下野し、顛末から、励ます意味で「大隈さんも学校でも作ればいかがでしょうか」という顛末が、諭吉の死後に、野球などで早慶という言葉が生まれ、慶應よりも早稲田のほうが、格式が高いかのように誤認され続けていること。
⑤弟子の作った、あるいは親族の関わった神戸大学や大阪市大は、まるで福澤諭吉など無関係と明記し、その歴史に諭吉の名を記さないこと。これは不当であろう。同じく、中央大学や専修大学もそうである。なので、お札からイレースされないのかもしれない。
⑥早慶とセットにされることで、大衆的、あるいは、マスプロ的とのイメージが付き、本来の実績が損なわれる反面、富裕層や二世・三世が学力に関係なく進んでいく学校とのイメージを持たれていること。このような世襲は、福澤が原点で最も嫌ったものである。
⑦福澤の死後、適塾方式で、予備校みたいに切磋琢磨しつつも、卒業すれば、その成績は無関係という美しい習慣が消滅してしまったこと。そして、対抗意識をもって眺めいていた官立学校の大半で、適塾方式が採用されていったこと。
⑧最後に、福澤が考えた、本来の実学とは、外国語をベースとした理学と商学なのに、その部分は、現行の慶應義塾であくまでも付随的になってしまっているという、本末転倒がおこっていること。
 それらだろう。
諭吉の像は、各キャンパスにあるが、諭吉はもがいているかもしれない。しかし、諭吉が関わった諸学校に、その像もなければ、ネット上にもかなり検索をしないと、諭吉につながらないことには、驚きと恩知らずとの思いを持っていただろう。
諭吉は、自ら旗振りして指導し、唯一、諭吉のみを先生とする慶應義塾を明治20年代後半、自ら閉鎖する、と宣言したことがある。私は、この時の諭吉の気持ちは本心で、諭吉が、浜野定四郎、小幡徳次郎など数人の側近に、義塾の運営を任せた後の事情、他の諸学校のほうが、自分のイメージに近いことなどが本音にあったのではないかと、なんとなく思われてならない。