なぜ一人勝ち?慶應義塾


現代ビジネス界で活躍するビジネスエリート輩出校
一人勝ちで圧勝の慶應、輩出率で一橋、


1.東大が何でも優れていたわけではなかった

 江戸末期、各藩にはその藩士の英才を集めた藩校があった。そこで、頭角を現して明治政府の諸学校、例えば、司法省法学校、工部省工学校などがあり、明治政府が給費生を募り、留学する制度もあった。旧制東京大学に先行するエリート校だった。このほか、私塾として早くに成立し、体裁も整えていた慶應義塾は、明治初期(明治14年までのおよそ20年間ほど)、多くの官僚を送り出した。
 明治10年になり、帝国大学令が発令され、急速に東大の態勢が整えられ、明治30年には京都帝国大学が設置された。とはいえ、橘木が指摘するように、京都帝国大学は学問、特に文学部の哲学や東洋研究、理学部には実績を上げたが、法学部や経済学部などから官僚を輩出するという役割では終始、見劣りした。したがって、京大がその程度だったわけだから、その後、成立した東北大、九大、北大の威信、官界や法曹界、財界への進出というと、実にお粗末なものだったと言わざるを得ない。
 その証左の1つに、高田保馬の例を挙げたい。高田は日本における社会学を初めて体系化した功績があり、また、後に近代経済学の嚆矢でもあるという近代日本の社会科学の巨人の一人である。
その当時、東大では、明治の初期に紹介されたスペンサーの、デタラメな訳で紹介する建部頓悟や外山正一などが跋扈し、外山に至っては帝大総長にまでなっている。外山がかくもデタラメな学者だった理由は東大を出て直ちに助教授になり、2年ほどの留学後、直ちに教授として着任した。外山は社会学担当だったわけだが、フランス語も読めず、コントやデュルケム、ドイツのマックス・ウェーバー、ジンメルなどの存在も知らなかったようだ。
建部に至っては、「カント、コント、トンゴ」と繰り返し、自慢話に明け暮れ、これといった研究業績もなく、終わっている。
そんなスタッフだったので、日本の社会学はほとんど開花しないまま推移した。
高田の出身校は京大文学部哲学科なのだが、壮大な社会変動論と階層論を構想し、大きなインパクトを与えた。高田は生涯にわたり、ずいぶん所属校を変更したが、この仕事をした当時は九州大学法文学部の教授だった。しかし、高田の社会学は、どうも東大関係者にはあまり評価されなかったのか、あまりのレベルの差に封殺されたのか、高田も何冊かの著述をするに終わっている。もし高田が、東大文学部の社会学教授に招聘されていれば、日本の社会学史は変わっていただろうし、社会科学の体系自体がマルクス主義傾斜することもなかったかもしれない。高田の強みは、哲学科出身で、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語などの複数の語学に精通していたことだろう。
高田は、イタリアのパレートに触発され、数理経済学を体系化していく。この仕事は既に経済学部を持ちながらも学説史、思想史、経済史を主にやっていたところ、理論体系にし、分析枠組みしたという功績が認められ、母校である京都大学経済学部教授になる。その後、間もなく学部長になるが、阪大経済創設の中核メンバーとして移籍、阪大が近経のメッカと呼ばれるスタッフを高田がかき集め、近代経済学の理論構築を行なった。この伝統で阪大経済は現在でも、東大、京大、一橋、慶應などと並んで研究業績の優れた経済学部が看板になっている。


2.日本における社会学の遅滞

日本の社会学は初期の東大においては最悪の状態であった。英語しか読めない、スペンサーの総合科学、スペンサー主義と言ってもよかった。スペンサーは、英国人で学校には行ったことがなく、家庭教師などに学び、生物学原理、心理学原理、社会学原理、政治哲学など幅広く書物を書き、米国ではよく読まれていたようだが、もちろん、アカデミズムにも無縁の人だった。
スペンサーは社会学を創始するきっかけとなった人ではあるが、一般には、フランス人で数学者だったオーギュスト・コントが実証主義とともに、社会学(sociology)という言葉を創始した。しかし、コントの実証主義は、自明なようだが、コントの科学論を手放しに礼賛している社会学者はかなり低レベルだ。
実証主義的な近代社会学を樹立したと言えば、エミール・デュルケームであるし、ドイツにおいては、マックス・ウェーバーであろう。二人の影響は大きいが、経済史や社会的行為を宗教と関連付けて考察したというところに共通点がある。さらに、ジンメルも無視できない。
大正時代、これらの巨人たちを正しく理解していた一人が高田保馬であり、もう一人、意外なのだが、和辻哲郎である。和辻は、多くの古典的名著を残しているが、社会学者というイメージがないし、社会学と銘打った本も書いていない。和辻は、旧制第1高校で谷崎潤一郎と親友だったが、谷崎を前にしては文才などなく、文学を専攻しても、とても太刀打ちできないと悲観し、京大の哲学科に進んだ。そして、後に、著した『倫理学』が、19世紀の社会学を非常にこなれた形で咀嚼した、日本発の社会学総論、社会学原論になったのだ。
和辻が東大の哲学科に進んでいれば、やはり、日本の社会学、特に東大の体たらくはずいぶん違っていただろう。今も和辻が優れた社会学入門を書いているということは知られていない。
この頃、慶應義塾では、塾長ともなった奥井復太郎が、シカゴ学派の影響を受け、独自の都市社会学を慶應経済で展開していた。
また、日本独自の動きとして、柳田国男が、国文学と民俗学から派生した独自の学風を築き上げ、柳田は慶應の非常勤講師をしながら、柳田を生涯、私淑した折口信夫に影響を与えたので、農村社会学、民俗学、伝承学という形で慶應文学部でも、社会学的研究が進んでいった。その後継者が、有賀喜左衛門であり、池田弥三郎である。
日本における社会学は東大を中心に歩んできたが、大御所として影響を与えた人物は京大出身の方が多い。その差は、古典への理解や学識の深さの違いだろうか。
そんなわけで、学問だけではなく、実業界でも、最近活躍する人材は東大中心でなくなってきた。


3.大学評価ランキング「使える人材」

ところで、週刊ダイヤモンド(2014年10月18日号)は、「最新大学評価ランキング」特集を組んでいる。著者である私は、この号が出た際、ちょうど50歳で、共通一次世代が「活躍する人材」になってきた世代であるという認識がある。実年齢で言えば、45-55歳であり、部長から取締役、早ければ社長として活躍する世代である。
今回のデータベースは「ビズリーチ」という人材スカウト会社の関係者からのアンケートで「使える」「使えない」という回答を作ったとあるのだが、これはどういう意味なのか、少しわかりにくい。いずれもスカウトされ、しばらく動いてもらったが、どうだったかというのか、意味が分かりにくい。また、どの程度の経過観察期間があったのかさえ、不明である。
例えば、一般企業では、3-5年の内部育成や指導支援も経て活躍することを期待するものだが、コンサルティングファームだと、最初の半年で決まり、不要なら1年以内に解雇など日常茶飯事で、こういう労働市場の違いを単純に比較できないからだ。
いずれにしても不明な点を残すが、雑誌から数字を取り上げ、多少検討していこう。
 まず、雑誌では、使える人材の定義をせずに、アンケートの回答を鵜呑みにし、使えない人材の数を差し引いている。
 そうすると、慶應がその差で1,634人と圧倒的に多い。その意味で、もちろん、慶應出身者がすべからく使える優秀な人材であると言えないにせよ、最も安全牌だということになってくる。他方、使えない人材では、東大が圧倒的に多い。ここで、「使えない」という評価を得ているということは、既に採用されているか、実在しているか、あるいは、スカウトの対象になり、移籍をしたが、期待外れだったことを意味する。東大の100に6割近い数字(58.9%)を示したのが早大だ。また、5割弱で慶應、3-4割で、京大、明治、法政、日大などがあるが、これを単純にどう読むかは定かではない。そこで、さらなるマイニングを行なった。







<図表1-使える人材と使えない人材>









<図表-学生数別総合評価>

※学生数は、2015年5月1日現在の数字。

分析の概要
①今回のアンケートはあくまでもサンプルである。海外留学組にしてハーバード以外出ていない。その出身大学も不明である。大学に関しても院だけの可能性もある。私の例で言えば、慶應卒で博士課程まで学んだが、九大でも博士課程単位取得である。このような例は少なくない。
②そこで、輩出率を仮に5倍にし、小規模の輩出に傾斜をつけた。そのうえで、大学の学生数をネットから拾って分母にした。
③上記の結果、輩出ランキングは次の通りとなった。
(1)一橋大学
(2)ICU
(3)慶應義塾
(4)東京大学
(5)東工大
(6)京都大学
(7)早稲田大学
④使える人材を5倍の係数をかけ、他方、使えない人材に(-4)の係数をかけて総合評価した。平均点は924、標準偏差は1,866である。その後、偏差値を算定した。
(1)慶應義塾 91.7
(2)早稲田  79.6
(3)京都大  65.9
(4)東京大  62.9
(5)一橋大  58.1
(6)東工大  56.6

4.W合格の行方
W合格は、週刊誌などによく出ているが、あまり意味がない。まず、文学部を例にして早慶を比較したとしよう。慶應は3400-4000名程度の受験者に留まっている。他方、早大は1万人を超えている。合格者の定員はほぼ同じ500程度である。もし仮に併願者が2000人以上いて、合格者も6割以上ダブっているとするなら、比較する意味もあるかもしれない。ところが、実際の併願者ははるかに少なく、W合格も50名程度かそれにも満たない。そのうえで、7対3で慶應が選ばれているというのだが、その根拠も探索すべきだろう。この文学部にしても、早慶で入試形態、要求内容がずいぶん異なる。
また、慶應経済と早大政経に関してはどの程度のW合格がいるのか、不明だが、6対4で早大が選ばれているという。慶應経済はB方式での受験者だろう。早大政経が選ばれるのは、入学後、慶應では、数学や統計学の履修要求が厳しいことを敬遠する結果ではないかとも考えられる。また、サンプル数自体も非常に少ないと考えられる。数十人程度だろう。
慶伊富永(1984)は、共通一次試験導入当時、私立の難化とW合格の行方を追跡研究している。これによると、地方旧帝大(北大、東北大、阪大、名大、九大など)では少なからず、また、それに準じる、東京外大、千葉大、広島大、横浜国大、都立大(現首都大)などに関して、非常に高い確率で早慶受験に8割程度は失敗しているが、かといって、W合格している場合、私立を選ぶことは最大で5割、圧倒的に国立大が選ばれていると詳細に分析している。これは共通一次、二次試験と準備をし、私学で半分程度の学費格差、施設や教育環境などの格差があるので、当時は国立が選ばれたのだろう。しかし、この調査には、さらに注目すべきことがあり、試験制度の変更により、東京外大、千葉大、広島大、横浜国大、都立大(現首都大)などの首都圏有力国立大・公立大を本命とする受験生がマーチクラスの私学の合格率が半分程度だということだった。
週刊誌は、慶伊のように、綿密な研究をすべきだろう。しかし、慶伊は、私学との併願で劣勢にある大学の具体名を示していない。その一方では、私立の明細は詳細に示している。

5.三商大と慶應義塾
 福澤諭吉は、慶應義塾の設立の一方で、いくつかの商業学校の設置に関与した。その3つが、現在の一橋、神戸大、大阪市立大だ。このうち、一橋は当初、私学、その後、東京府立になり、その後、官立学校になった。起業家育成にはほとんど成果を上げていないが、いわゆるビジネスエリートを育成する学校としては大正期から昭和初期、慶應を凌駕する勢いを示したことがあり、さらに、戦後は慶應を超える面もあった。神戸大や大阪市大は関西で一定の地位を占めたが、とても一橋に拮抗する水準には至っていない。しかし、輩出率では、一橋は僅差ながら慶應を圧した。しかし、実業界では、数やネットワークも不可欠だ。東大法学部による政官財の鉄のトライアングルという言葉もあった。しかし、もはや、そのようなものは今、あり得ない。上場会社の社長、役員、起業家、短期に上場させた経営者には圧倒的に慶應義塾出身が多いことは否定できない。まさに一人勝ちだ。