早慶と互角になる明治大学

 

 

明治大学が私学筆頭になる日がやってくる
-驕れる早慶、久しからずや!

1.活躍する明治大学の卒業生
明治大学の卒業生というと、かつては冒険家の植村直己が代表的だった。1970年代頃、日本中がプロレスやボクシング、ブルース・リーのカンフーなどアクションに釘付けになった時代、成し遂げても誰かに打ち勝つということのない、とんでもないことを計画し、次々と成し遂げ、日本中を瞠目させたのが植村だった。
日本人なのに野趣あふれた風貌は人種も不詳に見え、無骨で寡黙、北極やヒマラヤで雪焼けし、真っ赤な顔をし、這いまわり、まるで野人のようで、しかし、繊細で恥じらいのある人柄がその雰囲気からうかがえた。前人未到のプロジェクトを一人で立案し、次々とその目標を成し遂げていったが、インタビューされてもいつも一言二言、多くを語ることはなく、まして大言壮語することなどなく、とつとつとして、自らの快挙について胸を張って見せるということもなかった。そして、最後は、エベレストの厳寒の深い雪山の中に消え去った。いかにも植村らしい最期だと妻も悲しみを見せることなく、笑顔で見送った。
学会参加で明治大学を訪問した際に、関係者といろいろと大学のことを話したが、当時、植村直己を明治のイメージキャラクターにしているということでポスターを見た。そもそも冒険家など職業ではないし、スポーツの競技でもない。にわかには信じがたい快挙を成し遂げても報奨金が出るわけでもないし、その過酷さは取っ組んだ本人にしかわからない。しかも、植村はある時期以降、一人での冒険の敢行にこだわったので、何のバックアップもない。言うなれば、映画のランボーみたいに、命綱なしに、数百メートルの断崖絶壁をよじ登るようなことを、日常的に繰り返しているわけで、毎日が生死の境い目を突き抜けるものだったと言っていい。
知名度を増してからの植村には、冒険プロジェクトに多少のスポンサーはついただろうが、安定した収入が得られるわけでもなく、そのような世俗的なことに頓着していては冒険家などできないだろう。とにかくとてつもない人だったことは間違いない。教授たちは、植村を称えつつも、今の明大では難しすぎて、植村みたいな男は入れないでしょうね、とコメントし、うなずき合っていたことを思い出す。確かに、植村のような人物に大学に入ることも、何かをあえて学ぶことも意味がなかったかもしれない。
その後、日本人で文字通りの冒険家などいないし、女性初でエベレストを登頂したことなどの業績で表彰された人はいるが、あくまでもクルーを組んでのことで、何重にもバックアップ体制がある中での登山である。植村とは全く次元が違う。十分なチームで登山をしながら、女性なので用を足すために、クルーから離れて転落して死亡したという事件も最近、あった。
俳優では、任侠映画や戦争映画、アクション映画などで活躍した高倉健がいる。任侠映画はあまり観ていないのだが、戦争映画では、226事件を首謀する生真面目で実直な青年将校を演じ、印象的だった。独特の渋みとストイックさがあり、それでいて義理堅く、人情に厚く、どこか不器用なところがあり、私欲はまるでなくて、強烈な男気を感じさせる役柄によく合っていた。また、刑事役を演じたこともあったが、この時も高倉独自の味のある雰囲気はそのままだった。高倉健は、戦後日本でも間違いなく5指、あるいは3指に入る名俳優である。
植村と高倉、この二人は、古き時代の明治大学を代表する人物ではないかと思う。二人の生き方やイメージには相当違いがあるが、底流に何か、つながり合うものを感じる。
ところが、今、明大卒で活躍し、露出度の高い人物はそんな、男の汗のイメージはなく、若い世代では、ずいぶんイメージが違う。文字通り、さわやかなイケメンが多く、こざっぱりとした美男美女ばかりなのだ。
今、想起されるのは、井上真央、北川景子、向井理、山下智久などで、そろってスマートな都会的な雰囲気を持つ。こうしたことから、明大というと、イケメン、格好いいというイメージが強くなった。また、イケメンがいるというイメージができると、女の子が集まってくる。
私立の女子高では、マーチを目指す女子が多い。昔なら、立教、青学が人気だった。しかし、今は明治がそれらを上回るという。志願者数にもそれが顕著に反映されている。明治の志願者は過去10年近く、ほとんどずっとトップである。
最初に、明大OBのイメージを今一度、確認するために、主な分野の卒業生を紹介しながら、その共通項を探ってみたい。
政界では、内閣総理大臣になったのは、三木武夫と村山富市の二人がいる。
三木は、30歳で衆議院議員になり、その後、順調に出世し、経済企画庁長官、外務大臣、副総理などを歴任したが、主流派ではなかった。しかし、田中角栄を中心とする金権政治を是正することが期待され、三木を置いて余人なしという中、総理総裁に選出され、政治資金規正法の改正などを取りまとめた。当時、クリーンな三木、というイメージが強かった。
村山は、社会党に属していた。その意味で政治家としてのキャリアは長年、地味なものだった。ところが、小沢一郎を仕掛け人とする非自民・共産の連立与党である細川内閣に対抗するため、自民党が社会党と組むという策に出て自社連立政権が成立し、その首班として担がれた。オウム事件、阪神大震災など日本を揺るがす出来事に対処し、さらに、日本のアジア侵略を認める「村山談話」を発表した。長年野党にいた村山らしい行動を取り、異彩を放った。
自民党の出世街道を駆け上がった三木と、長らく野党に属した村山では、そのキャリアは全く異なり、対称的とさえ言える。例えば、閣僚経験豊富な三木に対し、村山にはそれがない。しかし、ともにクリーンで、私欲がなく、硬骨漢で、一徹だった。政治家にありがちな権謀術数や狡猾さ、腹芸、金権、しがらみなどをまるで感じさせないという点では共通している。
また、ともに中退だが、二人の衆議院議長を輩出している。森田茂が昭和初期、大野伴睦が戦後間もない頃に就任している。ちなみに、議長は、総理大臣よりも俸給が高い職である。中退したのは在学中に司法試験に合格、弁護士となったためなどの理由だ。
また、ここでは、詳細を紹介することを割愛するが、明治から戦前までの間、日本商工会議所の初代会頭を務めた藤田謙一など多数の財界人を輩出しており、その面々を見る限り、数では慶應に劣るかもしれないが、早大や中央と比べてもほとんど遜色がないか、むしろ上回る人材を実業界に送り出している。また、自治体の首長、議員に関しても同じで、早慶と比べてほとんど遜色がない。さらに、研究者の輩出に関しても、早慶明で明治から戦後までほぼ互角と言っていい。ただ、そこに明治独自の存在感があるかというと、そうでもないので、詳細は省略したい。
明治大学ならでは、というと、実は芸能界、歌謡界、お笑いなど大衆芸能やサブカルチャーで活躍する人が多いことだ。一部ではあるが、紹介しながら、明治らしさについて考えてみたい。
明大というと、中退者を含め、芸能界で活躍している人が実に多い。
筆頭は古賀政男で、日本の歌謡曲の黄金期を築いた立役者だ。次々とヒット作を生んだが、生涯で4000曲以上を作曲したという。古賀の作曲には昭和を代表する名曲が多いが、美空ひばりの「柔」、「悲しい酒」はそれぞれミリオンセラーとなった。また、藤山一郎の主な持ち歌も古賀の作品である。
古賀の後、日本の歌謡界を支え続けたのは作詞家・阿久悠である。その作品は主だったところで、沢田研二の「勝手にしやがれ」、ピンク・レディーの「UFO」などがあるが、生涯にわたり、5000曲以上を作詞し、1970年だから20年以上にわたり、常に阿久悠の作詞した歌謡曲がヒット曲になり、街のどこかで流れ続けているという時代が続いた。
このほかにも音楽関係者が多く、宇崎竜童と阿木燿子のコンビで、夫婦でもある。二人で作詞・作曲を分担して数々のヒット曲を生み出した。
また、ミュージシャンであり、作詞・作曲など幅広く活躍、さらにアカペラで独自の世界を切り拓いた。音楽について豊富な蘊蓄を持ち、存在感を示す山下達郎がいる。天文学を専攻しようと2回ほど東大を受けたが、不合格。結局、明大法学部に入学したが、音楽活動に打ち込むようになり、中退した。
なお、一部ではあるが、男優、女優/モデル、タレントと分けて、OB・OG(中退を含む)を列挙してみる。そうすると、明治大ってどんな感じってイメージがぐっと湧いてくる。
男優に関して主なところで、水戸黄門初代の東野英治郎、釣りバカ日誌など多数の映画に出演し、番組司会でも多く活躍している西田敏行。美空ひばりの元夫で、高倉健とともに任侠映画にもよく出演していた小林旭は、歌手としても実力派で紅白に7回出演している。また、悪役商会の一人で存在感際立つ八名信夫。脇役が多いものの、俳優としての活躍は長い原田大二郎。こうした面々から見えるのは、独特の男気があること、しかし、存在感があり、善玉を演じても、悪玉を演じても、一本筋が通っていて、どこか純なところと人情味があるところに共通点があるのではないだろうか。そこに、安易な打算や功利主義はなく、自分の信念、信条に生きる一途さを感じさせるのだ。
女優/モデルでは、田中裕子が筆頭だ。スタイルがよく、美形ながら、切れ長の目と表情に独特の存在感とエロティシズムを感じさせ、いつの間にか男性は視線を吸い寄せられてしまう。脱ぎっぷりがよく、新人の頃からヌードシーンの入った映像にも多く出演していたが、NHKの連続TVドラマ「おしん」でブレイクし、その後は世界的な映画祭で最優秀主演女優賞を受賞、さらに叙勲もしている。
このほかにも、原田夏希などNHKの連続TVドラマの主演女優など多数の女優を輩出しており、女優の輩出校としてみれば、早大よりも多く、6大学でトップ、しかも多士済々といった感じがする。
さらに、タレントの輩出でも、6大学でも屈指ではないだろうか。東大出のお笑い芸人なんて聴いたことがないし、慶應出身を気取る漫才師なんて嫌味なだけだろう。お笑いタレントというと、それに対して、明大はてんこ盛りなのだ。
ビートたけしを筆頭に、なべおさみ、三宅裕司、渡辺正行などと来ると、かなり共通点が見えてくる。二枚目ではなく、三枚目、お人よしで、涙もろい。親しみを持ちやすく、
ただ、たけしは、人一倍頭の回転が速く、カリスマ性があり、あらゆるテーマについてアドリブで即応しながら、ある時は政治家を相手に政策を議論し、ある時はお笑いバライエティの司会をし、そして、シリアスに、北野武としては、真摯な映画監督として活躍、世界的な知名度と名声をものにしてきた。東京芸大に映画製作の専攻ができた際は教授に就任、専攻長を務めた。言うなれば、現代の天才で、レオナルド・ダ・ヴィンチの再来とさえ言っていい人だ。実兄も明治大工学部出身で、化学の研究者になり、明大教授として教鞭をとった時期がある。
明大出身の多くのタレントの多くは、たけしのような真剣のような鋭い切れ味はなく、その代わりに、どんな成功も失敗も、そして、喜びも悲しみも、ともに喜び、ともに悲しんでくれる。いわく言い難い包容力と人間味があり、また、共感を通じてすぐに親しみの湧いてくる、そんな雰囲気を感じさせる温かい人柄で、慕われる人物が多い。
また、お笑いについてはキレのある人材を多く輩出している。これだけ、俳優とタレントを大量に送り出しているのは、やはり6大学では明治が最多であろう。
また、映画監督にも多数の人材を送り出している。筆頭は唐十郎で、前衛的な芝居を次々と発表し、作家としても活躍した。五社英雄は、「吉原炎上」のほか、「極道の妻(おんな)たち」シリーズなど多くの名作を送り出した。このほかでは、中島哲也、佐々部清などがいる。
早大にも演劇科があるが、明治の演劇科も、互角以上の実力で、俳優や映画監督、劇作家などを多数、送り出している。また、俳優、タレントの数では、ざっと2倍以上のボリュームではないだろうか。

<男優>
高倉健:東映ニューフェイス第2期、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞4回(史上最多、5回目以降は辞退)、文化勲章、文化功労者、紫綬褒章
根津甚八:俳優
小林薫:俳優
鈴木傳明:日本映画の黎明期を代表する俳優、“日本初の大学出のスター”、不二映画社創立、水泳部主将
山口勇:俳優(『腰辨頑張れ』(成瀬巳喜男の現存する最古の作品)、『和製キング・コング』)
東野英治郎:テレビ版初代水戸黄門、日本新劇俳優協会会長
西田敏行:日本俳優連合理事長、日本アカデミー賞協会組織委員会副会長・最優秀主演男優賞2回・優秀主演男優賞4回・優秀助演男優賞2回・功労賞等、歌手(NHK紅白歌手・司会・審査員)
清水将夫:劇団民藝創設メンバー
永井秀明:劇団麦の会代表
宇佐美淳:俳優
佐伯秀男:俳優、ファッションモデル、ボディビルダー
椙山拳一郎:俳優
武内亨:劇団俳優座、『水戸黄門』等の将軍・大名役
岩井半四郎(十代目):歌舞伎役者、大和屋、仁科亜季子(女優)の父、仁科仁美(女優)の祖父
高原駿雄:文学座、劇団青俳結成
山本麟一:東映ニューフェイス第1期
今井健二:東映ニューフェイス第2期
大村文武:東映ニューフェイス第3期、『月光仮面』等
小林旭:日活ニューフェイス第3期、“マイトガイ”、歌手(NHK紅白歌合戦7回出場)、映画監督、美空ひばりの元夫
梅野泰靖:舞台俳優(劇団民藝)、紀伊國屋演劇賞、三谷幸喜作品の常連
宗近晴見:俳優、声優(『サンダーバード』)
郷鍈治:俳優、ちあきなおみの夫、宍戸錠の弟
夏木陽介:東宝、学園青春ドラマ・スターの魁、実業家(行川アイランド)、ラリードライバー(パリ・ダカール・ラリー監督)
宗方勝巳:俳優、司会者
野村浩三:俳優座
小鹿番:菊田一夫演劇賞
金内吉男:俳優
大前均:俳優
八名信夫:東映、悪役商会結成、日本映画批評家協会特別賞等
稲吉靖司:劇団東俳
木場勝己:読売演劇大賞最優秀男優賞、芸術祭優秀賞、紀伊國屋演劇賞個人賞
草野大悟: 元文学座
藤井敏夫:俳優(元テアトル・エコー)
大久保鷹:俳優
小田豊:舞台俳優
大杉漣:日本アカデミー賞優秀助演男優賞等
不破万作:俳優
原田大二郎:元文学座、東洋学園大学学長・原田規梭子の夫、民主党山口県連副代表
伴大介:特撮ドラマヒーロー(『人造人間キカイダー』、『イナズマン』)

<女優/モデル>
松原智恵子:全盛期の日活を代表する青春スターの一人、“日活三人娘”
田中裕子:NHK朝の連続テレビ小説 『おしん』 ヒロイン(テレビドラマ史上最高視聴率)、モントリオール世界映画祭主演女優賞、日本アカデミー賞優秀主演女優賞・最優秀助演女優賞等、紫綬褒章
深浦加奈子:代表的な名バイプレイヤーのひとり
石川寛美:舞台女優(テアトル・エコー、演劇集団キャラメルボックス)
柴田理恵:舞台女優・コメディエンヌ(WAHAHA本舗創設、元劇団東京ヴォードヴィルショー)、 タレント
名越志保:舞台女優(文学座)
髙岸未朝:舞台女優、演出家(劇団俳優座)
エド・はるみ:舞台女優、タレント(2008新語・流行語大賞、24時間テレビ チャリティーマラソンランナー)
倉田恭子:女優
結城さなえ:女優
寺田万里子:女優
木村綾子:ファッションモデル、作家、エッセイスト(『SEDA』、『PS』)、「太宰治検定」実行委員
堀口茉純:女優、作家
尾崎由衣:女優
原田夏希:04'NHK朝の連続テレビ小説 『わかば』 ヒロイン、08'大河ドラマ 『篤姫 』 に出演、『原田夏希 宴もたけなわではございますが』

<タレント>
徳川夢声:日本放送芸能家協会(『日本俳優連合』)初代理事長、元祖マルチタレント、作家、『彼氏』・『恐妻家』等の造語者
南道郎:タレント、俳優
ロイ・ジェームス:司会者、俳優、コメンテーター、ラジオパーソナリティー(『ロイ・ジェームスの意地悪ジョッキー』、『不二家歌謡ベストテン』)
ビートたけし:タレント、映画監督北野武、俳優(日本アカデミー賞優秀主演男優賞2回)、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ(1999)、同コマンドゥール(2010)、元東京芸術大学大学院映像研究科教授・映画専攻長
三宅裕司:司会者(『三宅裕司のヤングパラダイス』、『三宅裕司のいかすバンド天国』他)、俳優(日本アカデミー賞優秀助演男優賞)、『スーパー・エキセントリック・シアター』主宰、明大落研出身
立川志の輔:司会者(『ためしてガッテン』)、落語家(文部科学大臣賞、文化庁芸術祭賞、紫綬褒章、落語立川流理事、『六人の会』、明大落研出身)
渡辺正行:タレント、司会者(『おはようクジラ』他)、俳優(日本アカデミー賞新人賞)、『ラ・ママ新人コント大会』主催、『M-1グランプリ』審査員、明大落研出身
白羽大介:タレント、俳優、『吉本新喜劇』座長
小宮孝泰:《コント赤信号》、舞台俳優(ITI国際演劇協会)、声優、明大落研出身
大川豊:大川興業総裁
水道橋博士:《浅草キッド》、ライター、コメンテーター、NHK 『総合診療医ドクターG』 で司会 (浅草キッド)
なべおさみ:司会者、ラジオパーソナリティー、放送作家、小説家、俳優、歌手
トカレフ林:タレント、宅地建物取引士
中山康夫:タレント
上田啓介:タレント、ラジオパーソナリティー、実業家、上田晋也(くりぃむしちゅー)の兄
渡辺江里子:《阿佐ヶ谷姉妹》
井上マー:タレント、司会者(『天才てれびくん』)、ミュージシャン
大谷ノブ彦:《ダイノジ》、『ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』

 なお、明治大学には付属の諸学校があるが、その中の1つにかつて明大中野の定時制があった。そこにはたくさんの芸能人が在籍していたので、主な人物だけ紹介しておきたい。ちょうど堀越学園のようなところだったのだ。
 ジャニーズの錦織一清、植草克秀、東山紀之、光GRNZIの内海光司、大沢樹生、しぶガキ隊も全員で、近藤真彦、野村義男。少しさかのぼるが、西城秀樹、城みちる、浅丘めぐみ、浅香唯、河合奈保子、小泉今日子、中森明菜などである。
 さらに、明大中野の昼間部には、多くの俳優、音楽関係者などが在籍していた。
西田敏行、津川雅彦、松方弘樹、宗方勝巳、松山鷹志、佐野圭亮、一雫ライオン、坂口憲二、勝地涼、手越祐也、高橋良明、豊原功補、宇崎竜童、清水昭男、御厨裕二、今井千尋、多戸幾久三、多戸アキヒト、井出慎二、若旦那、野辺剛正、大友ジュン、布川敏和、保阪尚希、保積ぺぺ、前田耕陽、本木雅弘、宮下直紀、宮田恭男、宗方勝巳、薬丸裕英、渡辺慶、三橋美智也など。
これだけ並べただけで、6大学で、最も俳優やミュージシャンが多いのではないかと思われる。これだけ芸能人が多いのは、明大以外では、日大芸術学部くらいではないだろうか。

2.明治大学が注目される、これだけの理由
明治大学駿河台キャンパスは立地がいいので、文系の学会の地域部会がよく開催される。ほとんどが土曜になるが、学生の姿も多く見かけるが、およそ半分程度が女子で、30年前とはまるで様相が違う。
女子明大生というと、ジーンズにTシャツなどラフな服装が普通で数も少なかった。しかし、これは、1980年代前半までのことなのだろう。
私がよく学会に足を運んだ2003年から10年ほどの間のことだが、駿河台のキャンパスに行くと、スラっとしたお嬢様風の学生が多く、どこかの女子大の学生が明治に遊びに来ているのかと思うほどだったが、それがまさしく明治の女子大生だったのだ。
校舎の一角には自販機が数台設置され、その横に数人で勉強をしたり、一人で勉強することもできる、スマートな空間も用意されていた(校舎の横にある手頃な空間だ)。そこにいたのは8割方、女子なのだが、談話する学生もいれば、ノートを広げ、教科書や文献を見ながら、熱心に勉強している様子の学生も決まって何人かいた。
かつては建物も、新左翼系の関係者が書き散らかしたと思われる立て看板が夜店のように並び、学生運動の拠点風、いかにも重い空気がただよっていた。しかし、そうした悪しき70年代以前の遺風は全部一掃され、オフィスビルのような瀟洒な建物が並び、隣接する山之上ホテルがみすぼらしく見えるほどだ。
これは、故山田雄一先生(人材育成学会発起人、産業・心理学会元会長などを歴任、明治大学では経営学部長や学長を歴任)が、レッドパージをせっせとやったそうで、そのために、山田先生は学長在任中、常に3人くらいのSPを連れているということだった。
今では、過去のことになってしまったが、明治大も新左翼の呪縛に相当苦しんだが、法政はそのパージに30年くらいかけたし、中央大はキャンパスを全面移転することで駆除した。早大にしても、新左翼の妨害で学園祭が行えるようになったのは90年代になってからのことだ。移転せずにレッドパージしてイメージも一新できたのは明治大だけと言っていいほどだ。
明治は、中央がお茶の水から大学全体が脱出する形で左翼団体から離脱し、法政が市ヶ谷と八王子にキャンパスを分離することで左翼パージしたところ、都心にキャンパスを置いたまま、常時、警備員を配置するなどして新左翼の分子を代謝し、また、それを先導する教員も学外に放出することに成功した。
私は自分の指導教授と山田雄一先生がまるで親分子分のように親身にしていたので、何度も山田先生を交え、三人でざっくばらんにいろいろなことをお話させて頂く機会を持った。山田先生は、心理学者で、古典にも教養豊かな文化人で、建物の改築を含め、6大学の状況をつかみながら、先んじて明治大学を改革すべく、その中心を担った方だ。卒業生の方には、この山田雄一先生のご尽力があったことを銘記して頂きたい。
キャンパスに行けばわかるが、校舎の中はエスカレーターで移動でき、教室や施設は2005年時点で比較すると、6大学屈指だった。その後、立教、早稲田なども設備を改善したが、2015年時点でも、明治の施設は圧倒的に充実し、美観においても優れている。また、施設の改善が徹底されている。明治大学の校舎は、その周辺のオフィスビルと比べてもはるかに斬新で、一目でわかるものであり、その竣工がいつ頃なら明治大のアドバンテージがあるか、上層部は綿密に計画を立てながら、その実施を急いだ。
比較対象となる早大は、国際教養学部の成立に合わせて商学部との共同校舎を建てた。ここは、満席で100名程度、実稼働だと、40-60名程度で授業をするようになっているが、早大の施設・建物は、この共同校舎のほか、先行して法学部、中央図書館、食堂・カフェテリア、小野梓記念講堂などが整備されている。しかし、施設・建物の新設は遅々としたもので、1年に1つくらいのペースで、2010年頃の時点で、政経、教育、文学部などの施設はまだ以前のまま、計画途上で、あちこちに薄汚い校舎を残していた。
私がかつて私立最高峰と言われた早大政経の校舎で学会が開催されて参加した時(2008年頃)、既に、法学部はガラス張りですごい建物で早大の中で最もきれいな建物で、1階にはコンビニが入っていた。しかし、政経は、最も施設整備が遅れていたようで、木造で、床がギシギシ言うし、木の床に油が塗ってあるようで、建物そのものはかなり大きいのだが、昔の小学校の校舎が巨大化したようなところだった。学内でもひどい状態だったが、明治とはくらべものにならない状態だった。
ともあれ、明治における、こうした箱モノ整備や、若い卒業生によるイメージチェンジの結果、私立女子高で明大が本命という生徒が10年ほど前(2000年代)から急増してきた。明大の偏差値は早慶に次ぐもので、決して易しくはない。難関校の一角を占める。しかし、私立文系で受験準備し、しかも、教科書をベースにした標準的な出題で受験が可能で、手が届きやすそう、というと、明治がその筆頭になるのだろう。
明治大学はかつて、早大の滑り止めとされていた。今もそうかもしれない。他方、文系でも数学必須、またほぼ全学部小論文必須で国語がない、など変則的な入試の慶應と明治の併願はそう多くなかった。70年代以前のことであるが、その早大でさえ、看板の政経と理工を除けば、さほど難関とはされていなかった。早大の大半の学部は国立受験をあきらめた私学専願の受験生が狙う先だった。しかし、早大は一癖も二癖もある早大特有の出題をするため、受験生を悩まし続け、オーソドックスな勉強をした受験生は明治か中央、あるいは立教あたりには受かるという傾向があった。その中で今、頭一つ出ているのが明治だ。
明治大学に人気が出るようになり、本命視されるようになったのは、いろいろな理由がある。次のようなことが考えられるのではないだろうか。
(1)早慶と異なり、教科書に基づく標準的で、適正な出題で受験勉強しやすい
(2)教養課程の和泉、専門課程の駿河台、ともにキャンパスの立地がよい
(3)校舎や設備が隅々まで非常に整備されており、清掃状態もよく、きれいである
(4)野球やラグビーなどスポーツでは早慶以上の活躍をしており、存在感がある
(5)俳優、女優、タレント、アナウンサーなど個性的で、魅力的なOB、OGが多い
(6)早大などのように学部序列がなく、基本的に学部間格差がほぼなく、フラットである
(7)就職支援がしっかりしており、キャリア支援が私学で最も行き届いている
(8)早慶に次いで人気企業への入社数が多く、就職が良好である
(9)就活をする際、丸の内などに徒歩圏で、圧倒的に有利である
首都圏にも私学が多数あるが、経営系の学会の部会は明治の駿河台校舎で開催されることが多い。駅から近く、教室もきれいだからである。その次によく利用されるというと、日大経済である。これに対し、敬遠されるのが八王子方面の郊外型キャンパスである。国立大学もあまり学会開催には設備その他の整備状況がいいとは言えない。
明大のライバル校というと、中央大である。これは後に草創期のところでも問題になるのでそこで詳しく言及する。そして、その中央大はかつて明大から徒歩圏に立地していた。明大はJR御茶の水駅の一方にあるが、その反対側の出口からさらにニコライ堂に進んだ南に位置し、徒歩5分だった。そのため、出身校を聴かれて中央関係者は、「お茶の水です」と答えるOBも昔はいた。
ところが、中央大学は、一部の学部(理工学部・後楽園)や大学院(ロースクール・市ヶ谷)などを残して学部課程は全部、八王子に移転した。中央大に行くにはどうしたらいいか。東京駅を起点にすると、中央線でまず立川駅に出る。運賃もさることながら、正味1時間かる。そこからモノレールに乗るのだが、その本数が少なく、短い区間でも運賃が非常に高い。東京駅からだと、片道1000円くらいかかる。
大学のキャンパスは広く、駅至近というわけではなく、駅からキャンパスに入って、校舎にたどり着くまでに20分くらいかかる。校舎の付近には何もない。駅から大学までの間にコンビニ一つもないのだ。大学の近辺に下宿して通うならその間はいいかもしれないが、中央大学の場合、学食以外、飲食店はない。学生たちは一体、どうしているのか、訝しくなるほどだ。
ただ、中央大は学生数が多いので、学食は極めて広く、価格帯も種類もかなりメリハリがあり、1日に2回利用しても飽きない充実ぶりだ。キャンパス人口が多く、近隣に競合するものもないので、思い切った投資をしたのだろう。
まず、他大学の学食の5-6倍の広さがある。定食もあれば、中華もあるし、麺類などの軽食コーナーもある。さらに、アラカルトで選ぶコーナーなどもあり、適度に人の流れが分散するように設計されている。もちろん、お湯などを注いで食べるインスタント食品を買うコーナー、パンや飲み物などを販売するコーナーもある。中央はバリエーションということで、学食No1と言われたこともあるほどだ。
ビジネス誌などの調査を見ると、中央大は実業界での活躍度では私学で3番目となっている。日本経団連の会長で私学出身初というのもキャノンの御手洗氏で、中央大法学部出身だ。ただし、中央大出身で実業界や官界、法曹界、作家などで活躍しているのはほぼ例外なく法学部出身だ。しかし、中大は、法学部以外の学部が振るわず、総合的に比較すると、明治のほうに勢いがある。
それはこの30年のことかもしれないが、何より、立地の良し悪しが致命的な格差となっている。東京駅から明治の最寄り駅、御茶の水駅は一駅だ。歩けない距離ではない。しかし、中大は中央線の快速に1時間近く乗り、さらにモノレールに乗り、さらに、そこから緩やかな、言い換えると、のどかな空間を歩いて行かないと、校舎にたどり着かない。この差は何かにつけて大きい。
中央大の学生の就活は相当、大変なことになるだろう。その学生が大学に行くにも、丸の内界隈に出るにもあまり距離的に差がないところ(例えば、三鷹や吉祥寺など)に自宅があるなら、さほど問題にならないだろう。しかし、そんな学生は一体、どの程度なのか。
実際には、就活もしつつ、大学にも通わないといけないはずだ。そうすると、校舎から企業までドアツードアで2時間弱のところを往復しないといけないことになる。電車の中で本を読んだりすることもできるかもしれないが、明治の学生はカフェや大学の図書館などで静かに読書できる。
中央が2時間のところ、明治だと、20分程度で済む(営団地下鉄丸ノ内線で、お茶の水から丸の内は一駅で2分だ)。この差は極めて大きい。就活は2か月程度、最低続く。どうしても、自由になる時間の差が、訪問する企業数の差になるだろう。
かつて都心部の地価が異常に高騰した当時(バブル期)、郊外にキャンパスを移転する動きが活発になった。広くてゆったりとしたキャンパスがよいということで、都心部の土地などを処分して多くの大学が教養課程やキャンパスの一部を郊外に移転させた。その代表格が中央大学で、移転前、お茶の水にあり、明治大から徒歩圏にあった。しかし、学生運動排除の狙いもあって、新天地に移ったのだ。
これに続いたのが法政で、学部の半分ほどを八王子に移転させている。この背景には、法政の左翼パージ問題があった。法政では、学内で左翼色の強い教員の多い学部は八王子に置き、そうでない学部は市ヶ谷に置き、市ヶ谷は警備員を常時配置し、新左翼を追い出すのにずいぶん苦労した。警備員数人は今でも門があるところに数人ずつ配置されている。教員、一般学生、どちらでもない人には、一声かけるし、土曜日は、学生も検問所のようなところに学部、学年、氏名などを銘記し、身分証明を見せて、身分証をつけてキャンパスに入るほどだ。
ところで、マーチの一角を占める青学も厚木にキャンパスを設置し、教養課程はここに通うようにした。しかし、不便だということもあり、10年ほどで渋谷から徒歩圏の神宮で幼稚園から大学まで過ごせるようになった。
早大は、学生数の割にメインキャンパスが狭い。例えば、学生数で2割程度しかいない学習院は地図で見ると、早大の2倍近くある。付属校があることを考慮し、さらに、学習院は戦前、官立学校であったことを考えても、不自然である。そのため、体育施設や体育会の運動場は点在していた。現在、リーガロイヤル早稲田という高級ホテルになっている場所は以前、大隈庭園というのがあり、相当広い庭園になっていた。一方、早大は、大隈講堂があり、わずかな広さの道を挟んでキャンパスになるが、そこに大隈重信の銅像があり、後は、古いもの、新しいもの、と混在するが、学部別に校舎が建っている。
これは裏話なのだが、早大は一斉に学生が集まると、この広さとこの建物に、これだけの学生や教職員が全部一度に集まることは消防法上問題があると、消防庁からなるべく早く是正するように指導勧告を受けていたそうだ。そこで、早大は、各学部の定員を一定率で削減し、その合計で新学部を作るしかないという選択肢を迫られた。
要するに、後に人間科学部となる学部は決して前向きな理由からの設立ではなかったのだ。結果的に、なるべく、削った学部それぞれから均等に教員が異動できるように学部学科や講座が構想されることになった。そして、その校地がメインキャンパスから30分程度の位置で土地を確保できればよかったところ、予算や諸都合などで所沢にその用地を確保したようで、それが西武池袋線の各停終点駅である小手指(こてさし)という駅で、池袋から急行で50分程度のところだが、早大の新キャンパスは、さらに、そこから、バスで15分ほどかかる。
四六時中、スクールバスが行き交い、大量の学生を満載して運んでいく。ここには、スポーツ科学部と人間科学部があり、体育会の練習場がほとんど全部そろっている。運動部所属の学生は小手指または大学の近辺に下宿し、新宿区のキャンパスに通う者も多い。片道90分以上かかる。これはあまりにも離れ過ぎていると思う。少なくとも2つのキャンパスの授業を1週間の中で通うのはかなり難しい。
バブル期に構想されて創設されたというと、慶應の藤沢もそうだ。相鉄の湘南台という駅が最寄り駅なのだが、大学は大きな駐車場を設置し、教職員はもちろん、学生も自家用車で通えばいいと想定していたので、スクールバスはない。最初はキャンパス人口も少なかったので、相鉄のバスの本数も少なく、不便だったそうだ。ただ、現在は本数も増えて、その限りでは不便が小さくなったようだ。ただ、片道220円と学生には安くない料金だ(月に20日、大学に行けばバス代だけで、8,800円もかかる)。中央大など八王子の学生と同じで、藤沢の学生も都心に出てくるには2時間程度、片道かかるだろう。就活の不便さは同じだ。
いずれにせよ、多くの私学が安易な郊外への移転に踏み切り、多少遠くても、広くて環境の良いところのほうが学生にとってはよいと80年代は考えた。理由は、その当時、弾けるように景気が良く、しかし、多くの大学が通学しにくいなどの理由で志願者が減る中、都心回帰で、郊外のキャンパスを閉鎖する例も増えている。中央大学でも法学部を都心に持っている拠点に移すという案が浮上しているらしい。
明治大学は、郊外移転を一切しなかった。既存キャンパス以外にも新しい学部を作り、新しい校地を造成しているが、いずれも都心である。これが、マーチと呼ばれる、明治、青学、立教、中央、法政という大学の中で、明治が頭一つ出る背景になった。
80年代は、国際化がブームになり、少なくとも私立大学では、英文科、英語学科に人気が集まり、国際的なイメージのあるミッション系の人気が高なった。JAR(上智、青学、立教)という言葉もあった。しかし、グローバル化が進む中、単にファッショナブルに英会話をする国際化ではなく、途上国でも体当たりで活躍する気力、体力、たくましさが求められるようになり、そのイメージに合う明治がクローズアップされるようになった。
週刊ダイヤモンドが実施した使える人材を調査したことがある(2014年10月18日号)。これによると、慶應がトップ、早大が2位となっており、その後は国立大が続き、明治は8位となっている。ところが、私学としては総合して明治が3位であること、それ自体も評価できよう。また、この数字は、使える人材から使えない人材の数を引いた数で序列をつけているのだが、明治は使える人材が520人に対して、使えない人材が328人となっており、実はこの使えない人材の比率が上位の他大学と比べて相対的に多いのだ。そして、使える人材の数だけで比較すれば、東工大、阪大、一橋とほとんど遜色がない(いずれも500-550人)。
活躍するOBの数だけで比較をすれば、明治OBが大いに活躍し、その活躍度が私学では3位、早慶と東大、一橋に次いで5位にあるということも事実だ。その意味で、明治の株価はこれからさらに上がると見ていい。観方を変えると、体育会だったからなどその他の理由で、見誤って採用して実際には活躍には至らなかったという明治のOBはこれまでは結構いたというに過ぎない。
また、近年、アスペルガー症候群(社会性が欠落し、自閉性の高い人物、風変りで、紙一重風の人物)の若者が増えるなど学力だけではない、性格的に、あるいは、発育上、不適応の問題が抱える人材の多発に企業は頭を悩ませている。
加えて、入社してしばらくしたら、抑うつ状態になったというケースも少なくない。企業は一般社員で3%程度、システム・エンジニアではその数倍の率で抑うつ状態が発生すると想定している(企業と業種によっては10%近い、あるいはそれを超える)。しかし、入社して早々に抑うつになられたら、仕事を教える暇もない。そのようなケースは避けたいというニーズは採用部門には非常に高い。そのような不適応人材(あるいは、おぼしき人)は、企業がハードルを下げてでも採りたい有名大学の卒業生に多い。お受験ということで過保護に育ってきたためかもしれない。
少なくともマーチクラスの学生に関して、そのような兆候が見えたら、企業は無理に採用することはないだろう。また、マーチクラスの学生は、総じて知力、気力、体力、心身の健康度、社会性などにおいてバランスの取れた学生が多い。少なくとも、そのように見える学生しか採用しないだろう。
企業では、東大や一橋などの有名国立大の学生はもちろん、早慶の学生もプライドが高いと感じている。もちろんプライドに見合った実力があればいいのだが、早慶ともに一般入試は半分程度か、それ以下になっている。そもそも入試で入った学生なら優秀だとも言えないが、運よく枠の空いた指定校推薦、あるいは一芸などで入ったような者も含まれている。どんな入学ルートであろうと、プライド、学歴エリートだという意識はもたげてきやすいものだ。端的に言えば、
これに対し、明治はスポーツ推薦などで、ぜひ明治で活躍したいということで入学してきた者もいるし、またこれ以外でも指定校推薦などで第一志望という学生も増えてきている。しかし、一般入試に関する限り、第一志望ということは少ない。伝統的に、早大に憧れ、そのすべり止めで明治というのが定番だった。かつては、それを引け目に感じて、前向きになれなかった卒業生もいたし、年配のOBには学歴の話題を嫌う卒業生もいる。しかし、しだいに、明大への評価が高まり、胸を張って明治大です、と言えるOBが着実に増えている。実際、早慶と明大の偏差値の差は僅差であり、学部によっては明治を選ぶという学生も出てきている。かつての明大生が抱いていた学歴コンプレックスは解消されつつある。
そればかりではなく、むしろ明大が第2グループだということをプラス思考で考える観方も出てきている。企業の人事部門も、若い時の挫折を持つ明大生には、余計なプライドなどがなく、順応性、従順性の高い人物が多く、使いやすい、周囲との協調性を大事にする、と評価されるようになっているのだ。また、明大生の質が確実に上がったので、上司に指示されたことは素直に、かつ的確にこなすし、さらに自ら進んで謙虚に学んで向上しようという意識も高い。怒られてもへこんだりせずに、素直に反省すべき点は反省し、その都度、リセットして、改善していこうという姿勢が見られ、好感が持てると見られるようになってきているのだ。
このような明大評を聴いて想起するのが慶大生に対する評価だ。慶大卒業生には確かに優秀な者も多い。上場会社の社長では東大を超えているという現実もある。しかし、企業の経営幹部を担う層は半分にも満たないのではないか。さして実力もなく、また努力することもせず、自分ひとりで問題解決できないのに、プライドだけは鼻持ちならない、そして、三田会のつながりで連携しながら昇進していけると思い込んでいる卒業生も少なくない。その意味で、慶應は明治と対称的かもしれない。要するに、勘違い慶應よりはリアルに生きる明治ということになってくることもある。
それだけではない。東大などの国立大は結束したり、群れるということが基本的にない。むしろ、卒業生どうしが競い合うという風土さえある。そんな中、比較的結束感があるのは一橋で、如水会というのがあり、交流も盛んだ。しかし、一橋のOBはそう多くはない。
私学では、慶應の三田会が結束の強さでは群を抜いている。その規模も大きい。これに対し、早大などの主だった私学は同窓会に積極的に参加したり、組織の中で群れることもない。一方、明治は結束力があり、数もそこそこいるので、組織の中では明治の結束は侮れない、と言われる。「結束の明治」という言葉もあり、互いに明治とわかると、結束して事に当たろうという風土がある。
現在、金融、商社、大手メーカーなど明治からの入社は早慶に次いで多い。今後は、明治OBは結束し、慶應三田会を脅かすという会社も出てくるだろう。
交際したい相手というと、筆頭はやはり慶應義塾大学だというのがお定まりだった。適度に頭が良くてお金持ち、そして、スマートというイメージなのだろう。しかし、交際したくない大学はどこかという質問でも、筆頭には慶應義塾大学が出てくる。これは、プライドが高くて付き合いづらい、すましている割に中身がない、という評価である。
最近では、交際したい相手の上位に明治大学が浮上している。理由は、妙なプライドがなく、親しみやすいから、というものだ。冒頭に列挙したOBやOGにしても、鼻のつくようなプライドの高い人物は一人もいないし、むしろ、良きミドルとして上位者を支えるキャラクターの人物、組織や職場で悩んだり、苦しんでいる人に温かいまなざしを向ける人物、私欲がなく、組織に忠実であるとともに、さらに部下に対して深い温情を抱くという人物像が浮かび上がってくる。
また。おしゃれ度に関するリクナビの調査(2014)によると、明大は3位と、かつての質実剛健でワイルド、男くさいというイメージではなくなってきているようだ。わずかな差ではあるが、かつて早慶と並ぶ、あるいはそれに次ぐとされた上智や、ポジション的には似た位置にある立教よりも上という意味は重い。

<おしゃれな大学イメージランキング> 
順位 大学名 割合
1 青山学院大学 33.5%
2 慶應義塾大学 22.5%
3 明治大学 18.4%
4 上智大学 17.4%
5 立教大学 16.5%

3.旧制にあった文武両道、今の国立大にはそれがない
 戦後、大学は新制になったが、これに伴い、旧制高校はなくなり、帝国大学と呼ばれた大学も有力校として今日でも研究拠点校としては健在だが、その勢いは俄然、小さなものとなった。高等師範学校や高等商業学校など複線化された学校も単線化されてしまった。一律に東大を筆頭にするいくつかの大学がトップになり、その他の官立学校はその下に序列付けされるようになった。
 旧制高校は、全国各地にあったが、最も威信の高かった第一高校は難関だったが、それに比べると、数字もつかない地方の旧制高校はかなり入りやすかった(当時、第1、第2など数字のつく高校はナンバースクールと呼ばれた)。
100点満点で言えば、85点くらいでないと受からない高校から55点くらいでも大丈夫という高校もあった。しかも、どの高校からでも東大への進学が、無試験で保証されていた。例外的に、法学部が高校時代の成績を考慮する、あるいは語学の試験を行なうことはあったようだが、それ以外では無試験だった。
 こうした仕組みなので、旧制中学の学生(今の高校生)はそれなりに受験勉強をしたが、高校に入ってしまえば、3年間は、学校での学業もさることながら、哲学書や文学書などを読んだり、それに関する議論を闘わせたり、野球やサッカー、武道など様々なスポーツに精一杯、打ち込むことができた。大学に入るために、特段、成績に関心を寄せる必要もなかった。
 太宰治の場合、旧制弘前高校に在学していたが、ほとんど学業に取り組んだ形跡はなく、かといって、スポーツにも興味がない。実家は富豪なので、多額の送金を受けて遊郭や芸者遊びに明け暮れていた。その合間に、創作活動を始めていた。太宰は、後に東京帝大文学部フランス文学科に進学することになるが、高校時代、不勉強でフランス語のアルファベットも怪しい状態だったという。旧制では、このような場合でも、無試験で東大に入ることができたのだ。
 東大と比べて威信の低かった京大の場合、旧制高校でスポーツに打ち込んで学業などまるでやらなかったという学生が進んでいた。住銀の中興の祖とされ、イトマン事件で悪名も高くなった磯田一郎は、旧制高校でラグビーに明け暮れた。文学部なら東大でも入れたかもしれないが、磯田は京大経済に進んでいる。また、宮内庁管轄の学習院の高等科からは、東大に入るのが難しく、多くは京大に進んだ。当時、京大は、優等生の進むところではなかったのだ。
 新制になったのは戦後だが、それ以降、新制高校で野球やラグビー、武道などに打ち込み、有名な選手になり、活躍した後、東大にも受かるというようなことは極めて稀になった。甲子園に出て東大に進んだ生徒が出ると、新聞に掲載されるほどである。しかし、新制になってから、だんだん東大をはじめとする国立大学の卒業生が活躍しなくなった。政治家にもこれという人がほとんどいなくなったし、60歳以下の世代になると、東大出身の社長が際立った手腕を示したという例も数えるほどになった。
これは、文武両道ではなく、文武分業が徹底された結果でもある。ところが、明大に入ってくる学生の多くは部活やサークルなど充実した高校時代を送って入ってくる学生が多い。分業組は少ない。それが明大生のパワーになって開花していく。
 また、スポーツ専念の人材でも明大は有力私学で頭一つ出ている。明治大学のスポーツがいかに盛んか。サッカー、プロ野球、オリンピック、角界、その他、あらゆる分野にどれだけの人材を送ってきたか、今更ここに詳しくは書かない。しかし、少なくとも、スポーツ分野の活躍度では、総合力で、明治はトップか、少なくとも日大に次いで、2位であることは間違いない。当然、早稲田、慶應の比ではない。例えば、プロ野球で言えば、星野仙一がいるが、選手としても実績を上げたが、星野ほど監督としての手腕を見せた人物はそういない。スポーツ選手の層が実に厚い。

4.お受験で小粒化した有名大学の学生
戦後すぐはそうではなかったが、1960年代くらいから全国規模の受験産業が大学のランキングや難易度を発表するようになった。筆頭は東大であるにしても、自分の実力からしてどの程度の大学なら受かるか、事前に把握できるようになった。そうなると、受験準備も次第に早期化し、東大をはじめとする有力国立大学を目指す生徒は高校に入ると同時に、受験勉強に取り組むようになり、進学校とされる地方の公立校でも、また、首都圏や関西にある私立進学校や国立大付属の高校でも、東大を中心とした受験指導に血道を上げるようになった。
そればかりではない。東大に合格する上位の高校が6年制一貫の中高になるにつれ、小学生になった途端、お受験に取り組むようになり、小学校に進級した児童が、それ以前と比べて運動する機会が減った、忙しくて時間がない、いつも何かに追われていると感じるようになった。
こうしたお受験と中高6年間のインテンシブな受験勉強によって、体力を養い、友人との人間関係を築くということが重視されなくなったのは当然で、そのようなことは大学に入ってからでもよいと考えられるようになった。特に、スポーツという面では、週に1-2回、身体をほぐす程度で、肉体を鍛えるような体育の授業をすることはなくなった。
結果的に、東大はもちろん、それに準じるとされる一橋など主要な国立大学の学生は同世代の若者と比べて総じて身長が低く、骨が細く、身体も華奢で、特に打ち込んだスポーツは、というと、何もないというのが一般的になった。
東大は入学後も国家試験を目指す者、進振りという制度で大学での成績を少しでも上げるために予想問題やノートのコピーなどを入手してやりくりする者など、入学後も全人格的に磨くということが難しい状況に置かれるようになった。
このような競争的環境に幼少時から半生を過ごすことによって研ぎ澄まされるものもあるかもしれない。しかし、小学生、中学生、高校生の時でないと、経験できないこと、また、その時期に一定以上、やっておかなければならないことも多い。大学に入ってからでは遅いことも多い。
特にスポーツなどを通じて身体を鍛えることで、中高時代に何らかのスポーツに取り組んだ生徒は、身長も高くなるし、筋力もつくし、競技を通じて、チームワークや仲間意識といったものを自然と学ぶ。何も国体選手のレベルにまでやる必要はない。
また、受験のためではなく、自分の興味や関心だけから読書するということもこの時期にしておくべきだ。受動的な姿勢で、与えられた問いに対して答えるだけでは、主体的、自発的な学習はできないし、社会人になって自分で判断することができなくなってしまう。
東大を筆頭とする難関校の入試は科目数も多く、詰め込むべき知識の量も多い。しかし、それはあらかじめ解答が明確な問いに対して回答することで、曖昧な状況での判断や、状況を深く洞察して過去になかった枠組みで考えることではない。
そのためか、東大は入学者に長期間にわたる準備期間を要求していながら、世界的に見ると、学生の学習意欲が低い、学生に活気がない、主体的な学習姿勢がない、問題意識が乏しい、そんな学生が集まっているために、卒業時で見れば、修学のレベルも高くはなく、大学としての研究レベルもほとんど見るべきものがないと見られている。
東大の評価は、全米で言えば、中堅クラス、アジアにおいてさえ、トップではない。東大にも留学生はいるが、東大に留学してくるメリットは少ないため、その数は多くない。その他の旧帝大とされる大学は推して知るべし、である。
そして、このような東大を本命に受験勉強をし、それに失敗した受験生が多く進むのが慶應であり、早稲田である。早慶は数が多く、また、付属校もあるし、推薦入試の仕組みもあるので、東大型の学生は入ってきても実在する学生の3-4割程度が限度だと思われるが、お受験の弊害は付属高校などにも及んでいるので、ある意味での「東大病」は、早慶にも4-5割以上、及んでいるかもしれない。
公立中学で多様な生徒と交わり、友情を育むと同時に、遊びに興じたり、スポーツも経験する。そして、受験勉強して、公立高校に進み、そこでも部活を行ない、高2くらいから徐々に受験勉強を始め、高3年になってスパートをかける。そんな通常、想定されている中高での生活を経た生徒がどこに進学するか。
もちろん、難関国立大学を制する者もいるだろう。しかし、そうした生徒は、受験機会が多く、首都圏なら通学の便のよい手頃な私学を選択するようになっている。慶應や早稲田が人気校であることは間違いがないが、近年、明治を筆頭とするマーチへの人気が高まっている。特に明治は数年前、志願者数で長年、トップだった早大を抜いて、近大にトップの座を譲った年度もあるが、おおむね志願者数首位の座を維持している。まさに、明治の時代になったのだ。
早大はこの10年ほどの間にスキャンダルに見舞われたりした(スーフリ事件と小保方晴子問題)。地方国立大学は、学生の首都圏志向や、就活の至便性で劣り、その地位を私学に奪われてしまった。明治くらいがちょうどよい。手頃な大学という形で、明治大学が浮上してきた。

5.明治大学成立の歴史と発展
明治大学の創設に関する経緯というと、なんとなくイメージが薄い。慶應義塾大学が今でも折に触れて福澤諭吉の言葉を引用して情報発信しているのに対し、明治大にはそういうものがない。
早大は大隈重信が創設者だということになっているが、これは、その基本構想と私財の大半を投じただけで、実際にはその采配は大隈の片腕だった小野梓が行なった。大隈は、独自の憲法草案を作り、会議の席上、開示したのだが、あまりにも急進的なその内容が警戒され、一旦、政府から追い出された。それを契機に、早大の前身、東京専門学校を創設することになるのだが、危険人物とみられ、表には出られなかった。初代学長は大隈の養子で、開設の手配はすべて小野梓が行なった。
では、明治大の創設者は、というと、どのような人たちだったのだろうか。
明治大学は明治14年に明治法律学校として創設されたが、神田・お茶の水界隈にあった法律学校としてはその先駆けになるものだった。これは、早大よりも1年だけだが、先んじている。
創設者は、岸本辰夫、宮城浩蔵、矢代操の三人である。いずれも江戸、幕末においては下級武士とされた人々だった。彼らは各藩から選抜された俊才で、明治政府の附設学校の学生となった。
なお、明治法律学校は、その後、専門学校令(大正7年)で、名称を「明治大学」と変更し、大学令により、いくつかの私学(現在の主要私学である、早慶や法政、中央、日大、國學院など)とともに正式な大学に昇格した。
東京大学が正式に成立する前から、明治政府の中の機構の1つに司法省があり、そこに法学校が設置されていた。東京大学は、江戸幕府の機関だった蕃書調所を源流とする大学南校(後に開成学校)、種痘所を起源とする大学東校の2つが合併することで成立した。
大学本校は、幕府の学問の中心だった昌平坂学問所の流れを汲むが、東大設立に向かう中、国学派と漢学派が覇権争いを激しく繰り返したので明治の初期、政府は本校を廃止した。こうしたドタバタもあり、政府の各省には諸学校が成立し、それらは、いずれも東大には組み込まれることはなかった。一時的に、併存していたのである。
諸学校には、司法省法学校のほかに、開拓使の札幌農学校(後の北大)、内務省の駒場農学校(学校は東大に組み込まれたが、教員は全部一新された)、工部省の工部大学校だった。
このうち、法学校はフランス系で、学費は無償、全寮制で給費され、学ぶことができ、留学する制度もあった。卒業後は任官が保障されていた。また、工部大学校はイギリス系で、やはり、同様の待遇で、この2つは明治初期の官立のエリート校だった。しかし、工部大学校は、3年ほどで廃止されている。法学校も東大が成立した後、統合されたわけではなく、役割を終えたので、廃校になった。
当時、列強の諸外国で法律制度が最も整備されていたのはナポレオン法典の伝統のあるフランスだった。そこで、明治6年、「日本近代法の父」と呼ばれる著名なボアソナードを招き、その指導の下に法整備を行なっていた。
前述の通り、司法省法学校には各藩から選抜された俊才が集まったが、岸本ら3人はそのメンバーだった。学生の中でも特に優秀だった岸本と宮城はフランスに留学し、さらに学識を高め、帰国した。明治13年のことだ。
留学を終えた二人のうち、岸本は判事になり、宮城は検事になった。当時としては法律の理論と実務の最前線に立つエリートだった。他方、日本に残っていた矢代は、元老院(明治政府初期の立法機関)に就職し、その傍ら、現在の弁護士に当たる「代言人」の養成学校・構法学舎の運営に携わっていた。
司法省法学校時代から、三人は親しかったこともあり、矢代は、岸本と宮城に講師を依頼した。そして、これが瞬く間に発展し、その年のうちに新学校設立の申請が行われ、翌年14年1月には、明治法律学校成立となった。
開学当初、学校は、財政基盤もなく、3人はいずれも30歳くらいだった。そこで、西園寺公望に相談を持ち掛け、旧島津藩の藩邸内に教室を持ち、岸本が校長、宮城が教頭、矢代は実務を担当し、講師は無報酬でお願いをし、切り盛りした。3人は本業と掛け持ち、無報酬で働き、また、西園寺も無報酬で講師に応じた。
実は、この時期の法律学校としては、明治法律学校はトップクラスの学校の一つだった。まだ東京大学は諸学校が合併し、成立して間がなく、やはりその法学部では、フランス法を基本に教育が行われていた。しかし、その学生数はまだ1学年10人にも満たない状態だった。これに対し、岸本、宮城はフランス留学歴もある学識者で、実務家でもあった。次第に学生も集まり、明治19年(1868年)、神田駿河台に校舎を建て、施設も整った学校として一歩前へ、踏み出すことになった。
後にいくつかの法律学校が成立し、それらが今日の首都圏の有名私学の主要な大学なのだが、一歩先んじて設立された明治法律学校は、明治時代に行なわれた代言人の試験では、合格者の40%以上、司法官試験でも同程度(40-50%)のシェアを占め、有力校の一角となっていた。
明治14年設立の明治大学の後、相次いで私学が設立されるが、その勢いを測る1つの目安として、明治35年当時の学生数に関する資料がある。これによると、明治大学は第2位で法律学校としてはトップの学生数を誇っていた。
明大の1年後に設立された早大は政経と文学科が中心で、法律科の運営には苦労していた。これは、政府から反体制の学校とみなされ、陰に陽に、嫌がらせをされていたこともある。法律科については、その教員が、英吉利法律学校(後の東京法学社、中央大学)に移ったりしたため、発展的に合併させるという案もあったほどだ。
初代司法省大臣・山田顕明の創った日本大学はこの当時、法律学校としては有力校で、明治に肉迫していた。山田は明治初期の法律を整備し、司法省内に皇法講究所を作り、その一角に作られたのが日本法律学校だった。半官半民で、その後、官立学校になってもおかしくない源流を持っていた。
この時点では、英米法系の中央大学、また、明治と同じフランス法系の法政もそれなりの人気だったようだ。とはいえ、現在の明治と日大が法律学校としては老舗だった。
明治35年の時点では、慶應は大学部全体で320名、このうち、法律科は数名だったので、上位だった明治から見ると、全く圏外だったのである。早大の法律科も勢いを挽回し、他校に伍するには時間がかかった。意外かもしれないが、法律学校としては、早慶はパッとしない存在だったのだ。

<明治35年における私学の在籍者数>
学校名 現在校名 設立年 学科 在籍者数  シェア
1 早稲田大学 早稲田大学 明治15年 法・政経・文 2,364 21.0%
2 明治法律学校 明治大学 明治14年 法律・経済 1,784 15.8%
3 日本法律学校 日本大学 明治23年 法律・経済 1,533 13.6%
4 東京法学院 中央大学 明治18年 法律・経済 1,260 11.2%
5 和仏法律学校 法政大学 明治13年 法律・経済 1,124 10.0%
6 専修学校 専修大学 明治23年 理財学 700 6.2%
7 関西法律学校 関西大学 明治19年 法律 684 6.1%
8 済世学舎 なし 明治9年 医学 620 5.5%
9 物理学校 東京理科大学 明治23年 理学 421 3.7%
10 慶應義塾大学 慶應義塾大学 明治23年 文・理財・法律 320 2.8%
11 哲学館 東洋大学 明治20年 文学 288 2.6%
12 國學院 国学院大学 明治23年 文学 180 1.6%
11,278

ところで、この統計数字の10年ほど前、後に、明治大学法学部に逆風となる出来事が起こった。日本史の教科書にも出てくる「民法典論争」(明治23年)である。当初、司法省の顧問だったボアソナードの尽力で日本の法律が整備されていった。また、明治大の設立者である、岸本・宮城・矢部はその愛弟子である。しかし、東京大学が帝国大学と改称され、帝国大学法学部が成立する頃には、フランス法ではなく、英米法を参考にすべきだという気運が強くなっていた。
東京大学の前身の1つ、大学南校も当初は、英語、仏語、独語を教え、その後に、専門課程に進むということになっていたが、数年後には英語のみになっていた。そして、英米法を支持する東大法学部教授が協力して設立した学校が英吉利法律学校で、今の中央大学法学部なのである。
論争と言っても激しく論議が交わされたわけではなく、帝国大学法学部教授だった穂積八束が「民法出でても、忠孝亡ぶ」と断じ、家族制を重視した民法が導入されることになったということで、権威のある東大法学部が英米法で行くべし、と決めたに過ぎない。
フランス法に対する評価が下落するに伴い、明治大をはじめとするフランス法系の法律学校の学生数はどんどん減って、他方、後発の英米法系の東京法学社(中央大)の学生は盛況を誇った、とされているのだが、論争のあった明治23年から12年後の明治35年時点では、まだ明治大学の学生数は十分に多い。
資料はないが、この時点からさかのぼると、法律学校の学生数のシェアで言えば、明治14年を起点に、どんどん明治の比率が高く、論争の寸前では、半分程度を占めていたものと推測される。ともかく、明治のライバルは早大ではなく、中央大だったと言える。
中央大学は戦後、東大の赤門に対して白門ということで対抗意識を示してきた。また、長年、司法試験で私学屈指の実績を誇ってきたのも事実だ。しかし、日大が司法省大臣自ら創設した法学校、そして、明治が司法省法学校の卒業生有志が創設し、草創期トップの法律学校だったのに対し、中央は、東京帝国大学法学部が英米法系の民法を導入するために法律のあり方の方針を転換し、東大教授が参集して作った東大直系の法学校であると言え、長年の歴史でほぼ自前で教員の育成も可能になったとはいえ、赤門、白門ということで対峙するのは、歴史的経緯からすると、少し滑稽ではないだろうか。中央大は言うなれば東大法学部の長男だ。
また、早大は反体制を設立以来から強く訴えてきた学校だ。しかし、早大はその設立当初、その教員全てが東大出身だった。特に、文学部で政治学を専攻した者がその中心だった。その意味で、早大は東大文学部の長男のような性格を持っている。
というのも、明治14年、まさに、それは明大が設立された年だが、この時、英米法を参考に議会制民主主義を基調にした明治憲法の草案を福澤諭吉のアドバイスなどを得ながら作成した大隈重信は、憲法作成準備のための会議の席上、突然、それを発表した。
草案を見た関係者は驚き、あまりにも先進的で、日本にはそぐわないと反論。大隈を一旦、政府から追放した。また、そのブレーンと見られた福澤も明治政府と距離を置くようになった。これ以降、慶應義塾から明治政府にする任官することはなくなり、早大も敬遠される時期が長く続いた。
民間人になり、無職になったことがきっかけで、大隈は、後に早大となる東京専門学校を明治15年に設立することにしたのだが、危険人物として警戒されていた大隈は資金を出すだけで、学校設立には一切関与しなかった。そこで、側近のような存在で大隈辞職に伴い、政府を辞した小野梓(33歳で夭逝)に一任した。小野は東大を出た官僚で、将来を嘱望されていたが、まだ20歳代後半だった。
そこで、小野は、母校である東大に行き、後輩に当たる、学生(天野為広、高田早苗、坪内逍遥ら)に声をかけ、卒業したら、講師になってくれ、と頼んだ。そして、その年に東大を卒業した7人の学士を新学校の講師にした。坪内は1年、遅れて卒業し、参加した。つまり、早大は草創期から明治の終わり頃まで、全員が東大新卒の教員だったのである。
この時、東大の卒業生は20名ほどだったので、ごっそりと卒業生を持っていかれた明治政府には衝撃が走った。後に、法律科に講師で入った人物は、東大教授の画策で英吉利法律学校(後の中大法学部)が設立され、そちらに引き抜かれ、草創期の早大は法律科の維持が困難になり、一時は、法律科を分離して、英吉利法律学校と合併する形で整理し、政治経済科だけにするという案も出たほどだ(設立時にあった理学科は学生が集まらず、3年で閉鎖された。その代わり、文学科ができた)。
残念なことに、明治大学の創設者の知名度は、法律実務家だったということで知名度が低い。しかし、当時の法曹界における立役者的存在で、法曹エリートだった。しかも、厳密に言えば、東大出身でもない。その前に政府が法曹界を担うエリートを養成するために完全官費で留学までさせて育てたエリートだ。
明治大学の卒業生ですら、三人の名前を列挙できないかもしれない。しかし、明治大学は、官立でもなく、あるいは教員全員が東大新卒者というような分校のような存在でもなく、まして、政治的な意図もあって設立された東大の植民地として作られた学校でもない。明治の創設者は、明治政府が全国から広く俊才を募り、政府が法律顧問として招聘したボアソナードを講師にし、その弟子たちで、特にその中でも優秀だった。彼らの同窓の学生が、判事や検事のほか、東大法学部教授などにもなった。
明治大学のライバル校には、早大と中央がある。法政は、ある意味で弟分だ。また、明治時代は、法律学校としてライバルだったのは今の日大である。
早稲田大は進取の精神、学問の自由とか言うが、東大文学部の長男だ。小野梓を筆頭に、創設時の教員は全員、東大新卒の学士だ。
慶應義塾は東大のインキュベートし、草創期のキーマンを送った。その意味で、東大の慈母のような存在である。福沢は多くの官立学校の設立に貢献したが、その恩を皆、忘れている。福沢は、身分制ではなく、メリトクラシーという新しい秩序の形成を強く訴えた。しかし、今日の三田会は福沢の想像をはるかに超えた、ある意味で不気味な結社のようになり、学閥主義という新しい身分制を形成し、諭吉自身の肖像画が印刷された札束が飛び交うようになった。
いずれにしても、戦後の東大卒業生で、実は東大の黎明期、慶應義塾のほうがはるかに整備されており、その卒業生が総長や教員をしていたことを認識している者はほとんどいない。慶應はその意味で受かるために必要悪とされる予備校か有名学習塾、Z会のようなものかもしれない。
イエス・キリストは処女受胎で産まれたという。イエスは人間としての肉体を持つために母親(聖母マリア)を必要とした。仮にこれを是として、東大は、まるで妖怪人間ベムのように自然発生し、突然変異でSTAP細胞から産まれたように関係者は思っているのかもしれない。よく言えば、創世記のアダムとイブだ。
中央大も、赤門に対抗して白門と言って、私学法学部屈指の看板を長年掲げてきたわけだが、民法典論争等の政治的な意図もあり、東大法学部教授が作った学校で、東大法学部の妾腹だ。中央大が明治の後年から昭和初期にかけて、法曹界、官界での実績が飛躍的に上がっていくのは、東大法学部直系の分校的位置づけがあったからだ。
そのたとえで言えば、明治は、官立ではなかったが、司法省法学校出身者で設置されたという意味で、東大法学部の弟分、司法省初代大臣が研究所として設置した日本大学はご落胤かもしれない。出自から言えば、東大との関係で最も優位なのが明治大学なのだ。
また、明治には、ミッション系、仏教系など宗教法人の資金的バックもない。福澤諭吉のようなカリスマ的文化人が創設者で、文明論や歴史観などにおいて呪縛を解きにくい慶應義塾のようなものも、明治大学にはない。文字通り、自由自治の学校として創設されたことに誇りを持つべきだ。明治には何の呪縛もない。
明治大学は、正統派の確固たる法律学校として設立され、多くの有為の人材を創設以来、主として法曹界に送り、後に実業界にも人材を送った。創設から20年以上にわたり、司法官試験や代言人試験の5-6割程度かそれ以上が明治法律学校だった。それに次いだのが日本法律学校だった。創設者は当初、法律学校としての名門を創設することまでしか考えていなかった。
創設者たちは、まさか現在のように明治大学が総合的な学府となっているとは想像だにしていなかっただろう。そして、明治大学が繁栄することを祈っても、どのようなあり方でなければならないという遺言は何も残していない。
その意味で、明治大学は、日本有数の私学の中で唯一、何の制約も呪縛もない、時代の流れを読みながら、先取創造していくことができる大学なのである。