東大or京大=Σ地方旧帝大

「旧帝大」は日常語か死語か?「早慶」戦という言葉は野球で始まった!

組織人事コンサルタント
永井隆雄

1.大学と大学院事情が入り、強い勧めもあって母校の大学院に舞い戻った背景
 私は関西に生まれ、高校時代まで関西に過ごし、その後、上京して長らく東京、首都圏に住んでいる。一時、関西に戻って仕事をし、生活したこともある。大学は慶應義塾でお世話になったが、その後、大学院が社会人を積極的に入学させるようになり、昔はハードルの高かった大学院に入学することになった。再び、私は母校の慶應義塾で、修士課程と博士課程、合計5年間の学生生活を送りながら、その傍ら、フリーランスのライターとコンサルタントになった。
 そこで、私が大学院生活から足を洗って、もともとの本業、経営コンサルタント、研修講師、また、大学院で学んだ知識を活かして執筆活動をすればよかったのかもしれない。今になってそうすべきだったと思っているが、私は、ひょんなことから、「旧帝大」と普段、それまでほとんど耳にすることのなかった国立大学に博士課程の院生として入学した。博士課程を連続して2度やるのは稀有のことだ。分野を変えて修士を2つ取ったという話なら、日本人でも留学などでよくある。
 その理由は簡単で、修士は基本的に2年間、博士は3年間、修士が専門知識を身に着けた職業人を育成する仕組みを持つ米国では、転職などの目的で修士を別の分野で取り直すことがあり得る。もう1つ、理由がある。それは欧州では、修士課程は基本的に1年なので、修士は取りやすい。2つ目の修士は英国や欧州のどこかで取った人も多い。
博士課程は日本での年限は基本的に3年で、その年限内に博士論文を受理され、「修了」となる人も多い。しかし、3年で取れない場合、単位取得退学して3年以内か、そのまま6年まで在学することもできる。博士課程は研究者養成機関であるから、一旦入った分野で何とか取得するのが普通であり、一般的なことで、私のように、2度目の博士課程が異なる分野へ進むという例は自分以外で聴いたことがない。非効率極まりない。バカげた行為なのだ。
しかも、私が母校の修士課程に入学したのは37歳。この年齢だと、学部からストレートで大学院に進んだ者は博士課程を修了するか、一旦、単位取得退学という卒業/修了に準じる形で課程を離れ、その後に学位請求論文を完成させ、それを単著などの形で出版し、准教授くらいにはなっている。早い人なら、この年齢で教授というケースも多い。この准教授から教授になる年齢は、実績などもあるが、学問分野や学部によって異なる。
慶應義塾を例にとれば、法学部と商学部は昇格が一般に早い。身近なところだと、修士の指導教授である清家篤先生(2016年現在、慶應義塾長)と、その2年先輩で、経産省や内閣府などの顧問をし、政府に大きな影響力と指導力を持つ樋口美雄先生の場合、いずれも修士課程修了時に、将来嘱望されて助手になり(24-25歳)、当時の助手は、終身雇用を意味したので、今の准教授に当たる助教授には28歳で昇格、38歳で教授になっている。たぶん、これが最短の商学部教授の昇格の目安なのだろう。したがって、私が修士に在学中、年齢的には同級生になる先生方が次々と教授になった。
法学部は全く仕組みが異なり、業績や学位が基本的に関係ない。慶應や早稲田は自前の教員が8割程度なので、事情が多少、異なるが、立教と神戸大は100%、東大法学部の植民地、また、全国にある国立大の法学部は半分近くを東大法学部出身者がポストを持っているのだが、学部で首席またはそれに相当する成績の対象者を2-3名、学部卒と同時に2年任期の助手(現在は助教という)になり、報酬をもらいながら、論文を1本書き、その実績で各地の大学に赴任するが、実年齢は24-25歳で准教授(かつては助教授)となり、30歳代前半、遅くとも半ばくらいには、そこからどこかの大学の教授になる。
法学部教授は修士号すら持たないのがエリートで、修士を持つ者はそれに準じる者ということになる。ただ、慶應もこの30年で東大にいろいろな面で肉迫してきたので、慶應修士修了で国立大准教授、24歳という例も続発するようになった。私が九大にいる頃にも、私よりはるかに若い息子のような年齢の後輩が准教授で着任してきた。法学部で博士課程まで進むのは完全にノンエリートである。そして、法学部では、切れ味の鋭い論文が1本2本あれば、実力を認める世界で、経済学その他、多くの分野のように業績を点数化して競う発想はない。そして、頃合いを見て、単著を書いて刊行し、それをもって論文博士を取り、法学博士になるが、それが教授就任に決め手になるわけではない。
他方、文学部は昇格が遅く、教授になるのが非常に早く、40歳前後という例もなくはないが、45歳前後が一般的である。明確な理由はなく、それは、慣例である。また、文学部教授が博士号を取らないことも多いが、取得する場合も、40歳代になってライフワークとして書いたもので論文博士を取ることの方が多い。もちろん、若くして最短の27歳、博士課程修了時に、学位請求論文を提出し、文学博士、あるいは、社会学博士などになる例も徐々に増えてきている。
理工系ではほぼ最短で取るのが普通で、特に理学系は最短でほとんどの院生が博士になっており、それがないと、一人前の研究者として認められず、おそらく、論文を書いてもファーストオーサーというが、主たる執筆者になれないのだと思う。

2.地域差の大学に関する呼称・略称、そこにある意識の違い<関西編>
ところで、関西の事情を最初にお話ししたい。関西は他の地域と異なり、国立大学とか旧帝大という言葉は高校生や父兄、また、高校の教師が使うことはほとんどない。その代わりに用いられるのが「国公立」と「京阪神」という国立大及び公立大学を指す言葉と、有力私学を示す「関関同立」という言葉だ。これは、他の地域の方にはなじみがないし、違和感さえあるだろう。
まず、関西人が、「国公立」と括る理由は、他の地域にない有力で学部構成から言っても地方の旧帝大と何ら遜色のない公立大学が存在することだ。また、関西は国公立志向が古くから強く、私学は学力的に劣る者が進む先とされてきた。現在でも近畿から中四国にはその観念、価値観が残存している。
旧帝大を使わない理由も明確にある。それは、1つに旧帝大はあるにしても、後発の阪大は戦時中に一部ができ、戦後、体制が整えられたので、帝国大学だった時期はわずかしかなく、名大と並んで、ほぼ新制大学に近い系譜にある大学であること、それと、理系(特に医学部と工学部)では見劣りする神戸大学の威信がそれなりに高く、神戸は一橋と並んで旧制では神戸高商で、経済と経営で始まった商科の大学で、そこに揃った学部は通学などの便も考慮すると、阪大とほぼ互角と見られていることである。また、京大は、関西人には憧れだが、京都帝大というイメージはあまりない。別に旧帝大という冠がなくても、通学圏であれば、東大とほぼ同じレベルの大学と見られている。そこから、京大が頭一つ出るにしても、「京阪神」という言葉が生まれ、就活の際も、京阪神学生向けセミナーが開催されたりする。要するに別格ということなのだ。
また、関西には、いくつかの公立の老舗がある。1つは大阪市立大で、現在の首都大学東京/旧都立大とよく並び称されるが、大阪市大の学部構成は、法・経済・商・文・理・工・医のほかに生活科学部があり、旧都立大と比べて人文系はやや劣るが、その他の学部は互角以上、しかも医学部を持つので、総合力で北大のレベルをすべての学部で凌駕しており、旧帝大で下から2番目の九大と比べても、医学部と工学部は九大に優位性があるが、その他の学部はほぼ互角か、それ以上なのだ。また、大阪市大は立地の関係もあり、神戸に受かるレベルの生徒が進学することもあるので、地元での威信は高い。名目上、偏差値で上になっている同志社とW合格して大阪市大を選ぶのは関西人には当たり前のことなのだ。
また、合併でようやく学部がそろった観のある大阪府立大学があるが、ここの工学部は昔から、入試の時期を工夫し、京阪神の理工系の学生の有力な併願先だった。府大は工学部に関する限り、大阪市大や神戸大より優秀な学生が集まっているという評価を受けている。また、大阪府大は大阪南部に位置しており、その地域から神戸などに通うのは遠い。阪大はやや格式が上でも、やはり大阪府大も神戸と比べて見劣りしないと見られている。
また、東京には東京芸大があるが、関西には国立の芸大はない。音楽学部はないが、京都市芸大が関西では美術系の最高峰である。同様の理由で京都府立大も、学部は限られているが、地元では、同志社という、首都圏の基準からすると、難関校ながら、W合格すれば、京都府大を選ぶことが多いのである。
こうした有力公立大学を擁する地域事情から「国立大」とか「官立学校」という表現は取らず、「国公立大」という表現が好まれるし、国公立大は学費が安く、教育条件もよく、就職もいいと見られている。
また、神戸のやや北部の学園都市にあるが、兵庫県立大学と神戸市外大がある。兵庫県立大は、かつての神戸商科大と姫路工業大が合併してできたが、阪大や神戸大などの滑り止めとされ、それなりの財界人も輩出してきており、通学圏の学生には身近な選択肢だ。また、大阪外大は大阪大と合併したが、通学の至便性を優先し、自宅からの通学しやさも最近は重視されることから、神戸市外大も神戸大とほとんど互角の学生が集まっているという印象が地元にはある。
そうした国公立大のほかにも、京都工芸繊維大、京都教育大、大阪教育大などもあり、滋賀大などもある。前期で京阪神が落ちた受験生は、あまり私学ではなく、こうしたその他国公立に進むのが一般的だ。
あえて頭一つ抜けてきた観のある同志社のみが、こうした国公立に唯一、W合格の際、迷って選択の対象になる大学になっていると言ってよい。その他の私学に、国公立大を蹴っていくことは関西では珍しい。関西人が、京大を除いて、学校の価値に首都圏ほど重きを置かず、通いやすくて、学費と通学費が安いことを重視するからだろう。
関西では、国公立が入試日程をずらすので、3つ受けられる場合が多いが、3つとも落ちたら、やむなく私学に行くと考えている。
また、1980年代、私は関西の高校を卒業した。ちょうど、共通一次試験が導入された時期である。この時、上位の国立大学を残して、もともとある程度の難関とされていた大学が急激に易化して入りやすくなった。それは、旧Ⅱ期校を中心に、入試科目が増えたこと、国立大が基本的に1つしか受けられなくなり、早慶などの一部の私学が急激に難化したのに対し、相対的に受かりやすくなったことがある。
この時期に急落したというと、横浜国大、小樽商科大、滋賀大、岡山大、金沢大、広島大のほか、九大以外の九州の各国立大などがあるが、これらの大学は、各地域の最高峰だった、東大、京大、東北大、九大などの有力な併願先で、志願者でも最終的な入学者でも、模擬試験などの記録を見ると、1970年代前半まで難関校の一角を占めていた。
特に、横浜国大、小樽商科大などは旧帝大の一角である阪大や、それと互角とされていた神戸大などより難関で、優秀な学生が入学しており、小樽商科は経済学の教育と研究、そして、卒業生の就職で北大の経済などと全く遜色がなかったし、横国大は、東大、一橋に次ぐレベルで、東北大、九大よりもかつては難関、優秀な学生が在籍していると見られていた。東京外大や大阪外大も1980年代以前と、それ以降では比較にならないほど序列が異なった。東京外大は東大文Ⅲに落ちたら行くところとされ、大阪外大も京大などの滑り止めだった。
さて、関西には、関関同立という言葉がある。古くからあるが、いつからのものなのか、はっきりとはしない。ただ、それは、関西大、関西学院大、同志社、立命館を指していた。1960年代後半の模試の資料などを見ると、この4つの中で群を抜いて難関だったのは関西学院で、特に経済学部が有力校とされていた。しかし、その他の学部についてははっきりしない。同じ時期、同志社と関西大は、今の偏差値で言えば、50くらい、3番手以下の公立高校からろくに勉強しないでも受かるところだった。
立命館は特異な存在で、共産党と新左翼が混在する学生運動の牙城だった。私学では学費が安いので、京大以外では、全国から学生が集まる唯一の大学だったが、地元の高校生や父兄からは敬遠されていた。民間企業への就職が厳しいと見られていた。これは、1980年代前半でも、そういうイメージがあった。
また、大阪市大も学生運動の拠点で、京大や阪大に落ちたら大阪市大という定番の存在ではあったが、好んで志願する生徒は少なかった。私の頃も、民間就職が悪そうと思われ、市大に受かる実力があれば、北大などに思い切って矛先を向けて進学していった。
1980年以前、関西から東京の私学を受けるとすれば、早大か中央法学部しかないと言って過言ではなかった。マスコミに強い、校風に憧れる、その他の理由から、現役で国私併願の受験生が浪人して早大を狙うということが起こった。大阪の公立進学校出身の橋下徹もそのパターンである。しかし、それ以外、慶應を含めて、ほとんどイメージがなかった。明治や立教等を狙う、受ける、ということは聴いたことがなかったし、全く情報がなかった。
それだけ、関西には、通学圏とレベルに応じて十分な大学があったし、それは今も変わらないということである。もちろん、1980年代に普及した共通一次試験で入りやすくなった、比較的関西から近い国立大、香川大、岡山大、金沢大、広島大、島根大などはその10年くらい前から転げ落ちるように易化したので、進んだ例はあった。
以上が大まかな関西における大学事情である。
こうした中、私は、3番手の公立高校の生徒だったが、現役で早大(法・文)、慶大、上智大(法)に合格し、慶大文学部に進んだ。私は大学受験で全勝しており、まぐれではない。余裕をもって受かった。しかし、早大の現役合格など10年以上なかったようだし、慶應は開学以来、2人目、上智は空前絶後だった。高校時代、遅刻、欠席、早退、しかも、体育の授業などは図書館で勉強していて、高校の成績は並より多少いい程度だったと思う。もちろん、私の現役全勝には、教師も同級生も驚いた。
私の高校は、複数の学区から進学できる調整校だったこと、定員が割れているので、1年の初め以外の時期に、簡単な書類審査程度で、親の転勤などで編入できたこと、私立専願の生徒が落ちてねじ込まれていたこと、中学時代に病気やケガで出欠が芳しくなかった生徒も入っていたこと、などで、おしなべてバカがそろっていたわけではない。
また、私は独自の読書と受験勉強を高校入学と同時に綿密に行なっており、全国区で実施される模擬試験で高1の段階から成績優秀者のランキングに入っていたし、そこには私以外で公立高校は数えるほどで、灘をはじめとする私立の進学校か国立大の付属が並んでいた。

3.地域差の大学に関する呼称・略称、そこにある意識の違い<首都圏編>
慶應に入学した私は、首都圏に出てきたが、驚いたことがいくつもある。
まず、関西で唯一、一目置かれていた同志社の付属なんて、軽く中学から高校へ行く時、受かったと思った私にとって、同志社よりも総じて格の落ちる、中央大(法学部以外)や明治、また女子大などの付属中高がものすごい難関だということだった。関西人の感覚からすると、そんな大学は公立校で少し勉強したら楽勝なのに、高校から入るなんてなぜか、と思った。
また、京大を除く関西の国立大への評価が低いことだ。中央大杉並高校を出て2浪し、慶應文学部で先輩だった人は、阪大なんて明治くらいだろうという。阪大は文系で一橋とほぼ互角で、理系は東工大レベル、医学部は慶應と互角、東京医科歯科大より上というデータもあった。それでも、明治と互角とされるのは、逆に明治が高い評価を受けていることになる。
当時の私大のランキングを見ても、明治は同志社より全部の学部で下、まだ当時、レベルを維持していた関西学院と比べても下に位置していた。仮に明治が関西学院と互角として、関西学院と、東京人には疎遠で聴いたこともない国公立とW合格して、関学に行くことは極めてレアケースだ。あるとすれば、関学が近くて通いやすいお嬢さんだが、そんなお嬢さんは最初から私立専願か、推薦で関学に入り、立て看板とヘルメット、タオルをマスクに竹槍で特訓している大阪市大など受けることはない。
また、当時、下落しつつあったが、津田塾、東京女子、日本女子などの私学女子大が難関とされていた。私の世代では、早慶とほぼ互角だった。関西では神戸女学院だけが難関だったが、入試は英語と現国だけだったので、単純に比較はできない。
他方、関西人の感覚からすると、もう少し評価されてもよかろう、千葉大、埼玉大、横浜市大、当時の都立大、筑波などは、医学部を除いて、イマイチの評価を受けていた。実際、私が就職した際も、これらの大学が同僚には全くいなかった。どうも、東京では23区外にある国立、公立の大学は評価されず、また、イメージもパッとしなかったのだろう。
なお、中央大学は既に法学部もレベルが下がっていたが、私が大学に入る頃はその他の学部はほとんど日大の同系統の学部と互角で、明治や法政より一段下だった。失礼だが、そんなレベルの大学・学部に入るために、付属から気合を入れて入学する文化が関西になかったので、毎日の会話に驚かされた。
なお、首都圏にも、東大以外は旧帝大がないので、日常用語で、高校生や受験生、その父兄、また大学生が「旧帝大」という言葉を発するのは聴いたことがなかった。東大関係者から旧帝大という言葉を発せられるのも聴いたことがない。
また、慶應と早稲田の威信の高さには驚かされた。私は、慶大生だったわけだが、少し前まで、並程度、少なくとも賢いとは思われない高校の生徒だったので、他の大学の女子や女子大の学生に親しくされることに驚いた。当時、オボこい私は、そんな女性に手出しできなかったが、その気になれば、どうとでもなっただろう。言うなれば、普段、エサを食っていないので、釣り堀に竿をかざすだけで、魚が食いついて、いくらでも釣れる状態だったと言っていい。
ちなみに、関西から早大に一浪して受かって進学しても秀才とは見られない。3番手の国公立くらいという観方しかされない。実際、早大は独自のマニアックな入試をしていたが、オールラウンドな学力を求める入試をしているわけではなかったので、ゆえあることだ。慶應はその点、思考力重視の試験をしていたが、関西だと、山の手・富裕層とされる一部の地域以外で、慶應を受けることはほとんどない。むしろ、富裕層のボンボンのイメージが強かった。
上智は私の頃、早慶以上に難関だったかもしれないが、上智が難関とかすごいという感覚やイメージは関西に全くなかった。しかし、当時の上智の入試における英語の求める語彙やスピード感、判断力などはおそらく受験英語の最高峰で、私には非常な鍛錬になったし、上智と比べたら、ほとんどの私学、そして、東大を含む国立の二次試験の英語はそんなに難しくなかった。
私の大学生時代はなかったが、早慶に次ぐ有力私学が、レッドパージをし、施設の増強を図り、教員も充実させて、いつしか、マーチという言葉が生まれ、雑誌等にも一般化した。MARCHと書いて、明治、青学、立教、中央、法政を指すが、学習院を含めてGMARCHということもある。旧制から伝統校である、学習院には、格式高い印象があった。
また、私の頃は、慶應文学部の併願先というと、まずは青学英文と立教文学部だったので、青学は何となく親近感があった。上智を受ける学生も多かったが、上智の外語や文学部英文の入試には失敗している女子が多かった。男子はほとんど早大を受けていたが、国私併願の受験生は早大入試には失敗していることが多かった。それは早大独自の出題形式による。例えば、遣唐使は中学生でも知っている。しかし、早大入試はその派遣回数を問うという出題で、これは、東大や京大を狙う学生には異常な問題だ。
しかし、郊外に移って凋落傾向にあった中央、薄汚れた校舎の明治、スポーツなら有名な法政をまとめて、採用重点校と呼ぶという感覚は大学院に入った40歳前まで実感がないというか、現実感がなかった。
学会その他の関係で、首都圏の私学や国立大に行き、学生の雰囲気や表情を見ていると、最もバランスが取れているのが、確かにマーチで、早慶は実力や分不相応にプライドが高いし、東大や一橋などの国立大には学生に華がなく、野暮ったくて、受験勉強を強いられたことから来る偏り、日当たりの加減でおかしな形でねじ曲がったような植物のようなものを感じた。純粋そうには見えるが、小ぶりで、男子はエースコックのトレードマークの子豚を思わせる雰囲気と、奇妙に舞い上がった傲慢さとプライドから来る向こう意気の強さがあり、滑稽にさえ見えた。
私の身近な東大卒に、反町雄彦(かつひこ)氏がいる(LEC東京リーガルマインドの講師で、民法を担当)。彼は武蔵高校から東大文Ⅰに進んだが、数学オリンピックでも入賞するほど数学も得意だったそうだ。
東大在学中に一発で司法試験にも受かっている。しかし、情緒不安定で、落ち着きがなく、典型的なボーダーライン(境界例)。とても一般就職は無理だろう。また、勉強中心で来たのか、身長は165くらい。女の子並だ。骨が細く、肉付きがある程度いいが、筋肉はなく、主に脂肪分から形成された体型。30歳の時点で成人病体質。キレやすいのはカルシウム不足などが原因かもしれない。
1980年頃の卒業だと、メガバンクにも東大卒の役員がいる。しかし、その後の世代では急激に減っていくだろう。反町タイプの東大生は、ある種の正解にたどり着く能力はあるかもしれないが、判断力がないし、人望もない。親父さんは後継者にすべく、一旦、若い息子を専務にしたが、すぐに役員から外して一講師に戻した。そんな歪んだサボテンのような人物がこまめに毎日、教育問題等を中心にブログを書いているのだから、理想の人材とはまさしく自分だと思い込んでいるのだろう。
私は、首都圏における、東大至上主義にも驚かされたが、拮抗する大学がないために、受験的に独走する。一橋や東工大もあるが、総合大ではないし、難易度では肉迫していても、やはり威信でガクンと落ちる感が否めない。一橋や東工大の卒業生で胸を張って、母校を語るって聴いたことがない。私の頃から始まった入試制度では、東大に入れない搾りカスの集まり。
旧制では、一橋は東京高商で、商業学校からしか進めないので、旧制中学から旧制高校経由で東大という連中より、よほど実務的な特訓も受けていた。経済学などの分野でも東大を凌駕していた。
東工大は、旧制職工学校から始まり、その前、蔵前高等工業になり、真面目な現場サラリーマンを養成した。なので、多くの左翼リーダーも生んだが、それは、庶民の学校だったからで、富裕層しか入れない東大とは違うという自負があった。吉本隆明の頃はそうだし、清家篤先生(2016年時点で慶應義塾長)の父で、戦後日本を代表する建築家、清家清も旧制の東工大に学び、戦後長らく、東京芸大学長を務めた。
また、関西と違って、都心部に人気のある魅力的で、手頃な国立大がないので、私学中心になってしまうのもわからないではない。
いつしか、自然科学の基礎研究では、腐っても東大と京大が世界ランキングで100位か、300位程度にランクインしても、その他の国立大学はほとんど圏外。どうにか、阪大が3番手になるべく地道な努力をしている。
他方、私学はその手のランキングでは全部、圏外で論外。そもそも理工系にそんな予算もないし、研究などで評価可能なのは、私学で慶應の経済学くらいだ。国内だけの比較なら、慶應は政治学でも評価が高い。人文系でもそこそこではあるが、やはり、研究予算などに大きな格差があり、その差は大きい。
ところが、1980年前後以降の卒業生が現在、上場企業の社長や取締役になってきているが、メガバンクなど例外はあるが、総数では、①慶應経済、②慶應法、③慶應商、と圧倒的に慶應の主要学部が圧倒し、4位にようやく東大法、5位に早大政経などと続く。一橋やその他の旧帝大は圏外なのだ。また、マーチもまだ、上場会社の役員層に人材を送るには至っていない。
こうした実績は20年ほどで塗り替えられていくだろうが、少なくともビジネスマンの幹部候補生は慶應が主流であり、東大は見る影もない。東大法学部を出ているからと幹部候補生扱いした時代の名残が今でもある。しかし、10年もすれば、その世代は引退する。東大の法学部、経済学部、工学部などかつての老舗企業の社長の定番が完全に崩れてきている。
日立製作所の社長は2016年現在、徳島大工学部卒である。光ダイオードでノーベル賞を受賞した方も徳島大工学部出身。不正経理で3代以上さかのぼって社長など役員、元役員がバッシングされている東芝でも、一気に世代交代が進むだろう。東芝も東大卒、主に工学部出身者が順送りで社長就任してきた。
今の50歳代で、卓抜したリーダーシップを取る経営者に、残念ながら、東大卒はいない。東大卒で東大教授という立場でノーベル賞を受賞したのは、後にも先にも小柴昌俊しかいない。しかも、小柴氏は受験に失敗し、1年間は明治大学に在学していた。明治大卒になっていた可能性もある。その他は、東大卒でも海外に行った人か、東大教授でも東大以外に大学から移った人だ。このことから、東大の選抜機能がいかにダメか、よくわかるが、東大は突如、学力試験のない推薦入試を始めた。学力試験のない選考で優秀な学生を採りたいという。東大には進振りなどの制度もある。学力試験を経ないで入った学生が、数学などで卓抜した能力を仮に持っていたとしても、東大の進級の仕組みになじむのだろうか。ますます東大はろくでもない卒業生を産業界に送るような気がする。

4.旧帝大という括りは今やほとんど無意味、しかし、地方では飛び交う
さて、「旧帝大」、あるいは、インペリアルという言葉は、私の場合、九州に行った際、毎日のように聴かされた。さらに「私学」という蔑称である。
私は、慶應義塾に通算、9年間、間を置いて在学した後、実にひょんなことから、九大の院生になった。私は、九大に入る気などさらさらなかった。私は、慶應での指導教授が博士論文の指導もせず、単位取得退学で出たらよい、実績さえあればポストはある、学位など必要ない、どこかの時点で論文博士を取ることもできる、などと言われ、博士課程3年目の秋に突如、翌年度、身分がなくなり、学会報告をするにも無所属になってしまうことになった。
もちろん、所属なしで学会活動をする人もいる。しかし、それは、どこかの大学の名誉教授などの類で、若い人にはほとんどいないし、胡散臭いこと、この上ない。同じ研究室の近辺にいた人は首尾よく筑波大の研究生になったり、東工大の研究助手などになって報告や論文を出していた。しかし、私には、これといったコネがなく、困り果てていた。
それまでの10年間、私はほぼ切れ目なく、非常勤講師をしていたが、それらは依頼されたから受けたからで、本業もあったので、拡大して受けることはなく、自然消滅していく分はあえて追いかけて請け負うことはなかった。理由は簡単で、準備の割に、報酬が安いこと、学生へのサービスをし、食事などまでしたら、赤字だったことだ。しかも、学生は大学が行なってくれるサービスだと思っているので、非常にずうずうしく、厚かましい。感謝もそんなにされない。研修講師やコンサルタントをやれば、1日30万以上は稼げるわけで、毎週拘束されるものはキリの良いところで断った。
慶應の学生にも正規以外の授業で何度か教えたが、学生がアルバイトの都合で日程を変更してくれとか、本が高いので、コピーして配布してくれとか、呆れてモノが言えないことを平気で言う。しかも、それなりに読みこなせるということで、8人ほど集まって、そこになぜか仏文の女子一人、男は英語の基礎が不十分で、中身を理解させる以前に英語力の基礎や語彙力がない。英語の原典購読がこの程度では話にならない。
私学最高峰、慶應文学部でも最難関とされる位置は昔から変わっていないが、私の世代とは比較にならない低レベルだった。原典購読の体(てい)をなさない状態で、半期で終わったが、男子は足が遠のき、半分はしだいに来なくなった。仏文女子だけは毎回、予習してやってきた。彼女は優秀だった。私の頃も女子は総じて男子より2-3ランク、優秀だった。
そんなことがあって、特別講師や非常勤講師には教育実績を積むという意味があるにせよ、週に1コマ担当し、月額で2万、年間で25万ほどにしかならず、学生とお茶を飲んだり、2回ほど飲食して払ってやれば、持ち出しになることの方が多かった。しかも、私が学部生の頃と違い、厚かましい学生たちは、そういう飲食費は教員が払って当たり前と思っているのか、お礼を言うのもほんの一部だった。
ともかく、所属先を作らないといけないので、親しくしていた先生方に、非常勤講師の口を何とかなりませんか、と逆に頼むしかなかった。しかし、11月になっており、ほとんどの先生方から翌年度の非常勤講師は既に継続を含め、決まっており、参入する余地はないとのことだった。
九大経済の准教授の遠藤雄二氏(後の指導教官)とも飲み会を通じて親しくしていたが、どんな実績で、どんな学問傾向があるのかは不明だった。次年度はサバティカルで、研究休暇を取るとのことだったので、やはり非常勤講師の話をお願いした。九大などの場合、夏休みの前の時期などに1週間ほど集中的にやるので、好都合だとも思った。しかし、ここも他の講師への依頼が決まっていて、もう無理だということだった。相談したのが飲み会の席だったこともあり、正規の学生ではなく、学部ないし大学院の研究生という制度があることを知った。
私学慶應義塾にはない制度なのだが、入学金8万、月額登録料2万で、授業の聴講や図書館などの利用が可能だという。しかも、無試験で、書類さえ揃えたら、誰でもなれるということだった。私は早速、資料を揃えて、九大経済に送り、次年度以降、研究生の立場で学会報告や論文を書き、研究業績を蓄積することにした。
ところが、例年、5名程度だった経済学研究科博士課程の定員が、私が研究生を志願した年度から大幅に拡張されるということが急遽、決まったという。遠藤氏は、携帯電話にかけてきて話し出したので、私は、「少しお待ちください」とすぐ電車を降りて、その用件を確認した。
まず、大学院博士課程の定員が大幅に拡張されること、私の研究業績なら、語学の試験が免除され、口頭試問のみの選考であること、ほぼ全入になるだろうという見込みであること、そして、早期修了が検討されており、最短半年、1年で修了し、博士号を取得できる可能性が高い、ということだった。
私は、1年で修了して博士号が取れるなら、仕事を一旦、中断し、九大に在籍してもいいだろうと考えたこと、また、研究生は指導教官の応諾のみ必須だったので、ここで断ると、研究生の話も流れてしまい、時期的に首都圏の国立大で研究生になるのに、ツテがなかったので、即座に応諾し、遠藤氏が送ってくれた博士課程の願書を書き、受験料を払い、その他は研究生応募の資料を差し替えてもらって、博士課程進学に切り替えた。
ところが、この意思決定が全くミスジャッジだったことは、その後、1年ほど経過するまでまるで考えてもみなかった。
幸い、第1次安倍内閣の特別予算で、再チャレンジを目指す女性、または35歳の男性には、授業料減免制度があった。結果的に、私は、2年間は半額免除、3年目は全額免除になったので、非常に安く在学できた。
しかし、最初に驚いたのは、合格発表のあった3月15日当日、徒歩で文系キャンパスから30分くらいかかる、旧正門の近くにある事務所に行くと、次年度の奨学金、授業料免除の申請は既に締切日を過ぎており、もう申請できないという。合格発表が今日なので、何とかならないのでしょうか、と尋ねると、事務の女性が奥の方の管理職に15分ほど話をして戻ってきて、「特別に認めましょう」ということだったので、10枚近い資料をその場で書き、提出した。
国立大なので、職員は国家公務員になるが、そのだらけた勤務態度、杓子定規で無責任、たらいまわしの対応には閉口することがその後も続いた。
私は、修士2年で、初めて書いた論文で、学会賞を受賞していた。その学会が発足して20年ほどで、17年ぶりの該当者ということで、久々の快挙ということになる。その学会賞が慶應で博士に進んで研究を続ける契機にもなった。しかし、研究法らしい研究法を学び、サイエンス論文を書けるだけの基本を習得したのは、最初の博士課程2年目以降のことだった。しかも、それは、他大学から非常勤講師で慶應に教えに来ておられた先生の指導によるものだった。
九州大学に正規の院生として所属することになったので、私は、少なくとも2年間は大学近辺に住んで研究業績を上げることに集中しようと思った。慶應の同級生で、既に国立大教授になっていた友人は、私に、学会は年に1回が基本なので、短期間で実績を積むには、8個くらい学会に入会し、報告と論文の投稿をインテンシブにする必要があると助言してもらった。私は、合計20ほどの学会に属し、その学会の年次大会すべてに参加し、報告をし、論文を月に数本書いて次々と投稿した。1年目は特に4-5時間の睡眠で、徒歩圏に食事できる場所もないので、ビスケットなどを食べながらパソコンに向かい、そして、プリントアウトした英文のジャーナル(論文)や本を食卓のテーブルに並べて読んだ。
私は、九大経済の院生が投稿する『経済論究』は1巻につき、2本まで投稿可能だったが、年に3回刊行されるところ、1年に6本、投稿した。2年目に投稿論文を出す日時に、私自身が行けない事情があり、共同研究者だった方に持って行ってもらったところ、「本人がいないとダメ」と言われ、突き返されたらしい。すぐに連絡して私が行くというと、もう締め切ったという。こんな嫌がらせも慶應時代にはなかった。
指導教官は、サバティカルなので、会議と学部の授業は免除されていて、院生指導のみということになっていた。授業も毎週ではなく、月に2回程度、それも土曜に2コマ程度、まとめて行なわれた。しかし、月2回なら、当然隔週を基本にし、適宜、学会などの日程を考慮し、変更することになるだろう。
ところが、この時に驚いたのは、私と同級に当たる小倉市役所の公務員が、市のイベントなどで、この日はダメ、この日もダメ、平日は夕方以降で無理、などと毎回言い、その女性の都合で日程が決まったことだった。地方では、公務員の地位は高い。それに合わせられないのはおかしいと言わんばかりの態度に驚かされた。しかし、この女性は忙しいようで、2年目の途中で来なくなった。
この女性もそうなのだが、経済学研究科に併設されていたビジネススクールがあり、そこの卒業生は博士課程がないので、経済システム専攻に移ってくる。経営学を専攻しているので、ゼミは2つくらいしか選択肢がない。ビジネススクールの詳細はよくわからないが、修士論文がない。なので、論文を書く基礎、また、実証研究をするプロセスや統計スキルは全くなかった。総花的にいろいろな授業をやって出ていくだけのようで、修士にふさわしい研究能力は全く身につかないようだった。
ところで、九大経済を首席で卒業するような学生は福岡市に就職するという話もあった。これにも驚かされた。そんな職業選択は、関西人には絶対あり得ないし、首都圏でも女性ならまだしも、男性がそういう選択をすることはないと思われた。
慶應の商学研究科、社会学研究科の時、授業・演習ではほとんど英文のテキストだった。日本語の文章を読んだことはほとんどなかった。九大で英語のテキストなど一度もなかった。これにも驚かされた。
また、指導教官の遠藤氏とは入学当初、昵懇の仲で、いつも連れ立って歩いていた。私は、修士で清家篤先生(2016年時点で、慶應義塾長)や政府の顧問や審議員をされていた樋口美雄先生の指導を受け、修士課程時代を通じて、指導され、影響を受けたのは文学部教授だった南隆男先生だった。
南先生は、産業・組織心理学者だったが、隣接する社会学や基礎心理学、パーソナリティ心理学などにも詳しく、博識だった。しかし、私が接した頃は、大学の授業は無理やり頼んだ非常勤講師に押し付け、自分のゼミでは、歌舞伎や演劇への参加を案内し、その話ばかりだったが、その観劇料が半端でなく高い。何度か観劇はつきあったが、付き合いきれなかった。
私が遠藤氏を指導教官とあえて呼称するのは、当時も今も准教授で、研究業績がほとんどなく、博士論文も書いていなかったので、教授に昇格していなかった(2016年時点で60歳くらい、九大の定年は63歳)。定年を前にしてなお准教授というのは珍しく、大学によっては50-55歳で退職勧奨されている例もある。当然、再就職はないだろう。
遠藤氏の素行や勤務ぶりは最初、非常に驚いた。国立大学はこんなに自由で破天荒なところなのか、と思ったのだ。しかし、そんな教員は他にいないことを後々、知った。しかし、共産党員で、通称「代々木」のネットワークに守られているので、遠藤氏の素行は表立って問題にされることはなく、下ネタ全開、セクハラ男としては屈指の人物を、九大はハラスメント委員会委員長にし、男女共同参画委員などにもなっていた。
その遠藤氏が、毎日のように話題にしたのが、「旧帝大」ということ、そして、東北大出身の教員がいると、東北は設立順位が3番目、九大は4番目ということなどが折に触れて出てくる。しかし、戦前の旧帝国大学7校には、台北帝国大とソウル帝国大が含まれていたが、戦時中に後発の阪大と名大ができた。この2つは、戦後まもなく新制になったので、阪大と名大が帝国大学だった時期は非常に短く、10年あるかないかだ。
新制になって以降に学部が整えられたので、実質的に旧帝大の意識があまりないと思う。大阪大学の場合、既に大阪府立の医学校があり、それを改組して医学部ができ、大阪帝国大学医学部になった。戦中には文系学部などはなかった。旧帝大意識を持つとすれば医学部のみということになる。その医学部も前身は大阪府立の医学校だった。
九大も戦前、法文学部があり、戦時中に経済学部などに分岐したが、各学部は極めて小規模だった。法文学部時代の経済学科は、2講座で教授2名という体制だった。戦前の九大は医学部と工学部のみと言っていいほどで、戦後から現在までこの2つの学部から交替で総長を出すという伝統があるほどだ。
にもかかわらず、経済学部准教授である遠藤雄二氏は毎日のように「旧帝大」という表現や言い回しを用いた会話を執拗に繰り返し、何度も取りつかれたようにした。しかし、旧帝大は確かにあるが、旧制の名門である一橋や神戸、東工大、筑波などがあり、それらは、医学部を除いて、明らかに九大を教育・研究で凌いでいる。九大よりも下と見られている北大に至っては、首都圏の国立大、横浜国大や広島大などと比べても見劣りし、公立大の大阪市大や大阪府大、都立大(現在の首都大学東京)の後塵を拝している。
遠藤氏は、経営学講座の担当だったが、少なくとも、経営学に関しては、一橋は比較するどころか、はるかかなた上の存在であり、総合力でなら、互角に近い神戸大と比べても経営学は話にならないほど劣っている。
私が在学した当時、3人の経営学担当者がいたが、3人の実績を足しても、神戸の准教授クラスの実績の総量に満たないのが実情だった。
にもかかわらず、「旧帝大」こそ、真のエリートとの自負だという意識を誇示し、誇大妄想としか思えない矜持に基づく自慢話がえんえんと続く。
ところが、旧帝大ということでは、東大と京大が二強であり、国際評価でも高くはないが、辛うじてカウントされる。そこに追いつくように努力し、最も実力主義で、研究重視で頑張っているのは大阪大学で、その他の旧帝大からは頭一つ抜けている。
名大も最近、ノーベル賞など理系が一部で元気になってきた。しかし、いろいろな大学評価指標を見ても、九大と北大は、医学部を除くと、筑波にも劣っており、あたかも、東大・京大の次の名門、あるいは同グループと誤認させる「旧帝大」なる言い回しには違和感を禁じ得ない。
最近のメガバンクの役員リストが掲載されている。東大と京大が非常に多いが、それ以外の旧帝大はゼロ、私学は早大が一人いるが、後の私学は全員、慶應だ。
これは、銀行だから、東大が多いだけで、ほとんどの業界では、慶應、続いて早大が役員のボリュームゾーンで、東大法学部は天下り組もいるので、ある程度はいるが、東大経済や一橋ですら、今や少数派であり、まして、阪大、東北大、名大、九大、北大を出たエグゼクティブなど数えるほどしかいない。
そうなったのは、一時的に受験が全国区になり、九州だと、交通の便などで優秀な学生が九大を本命にした時代が終わり、同じく、東北でも、秀才が仙台の東北大に進むということが激減したからだろう。
私は九大経済の同窓会のメンバーであるが、同窓会長はアサヒビール会長だが、今は相談役。今のアサヒビールの社長は青学出身で、九大経済で一流企業の課長クラスはいても、役員クラスと出くわしたことがない。
それでも、「旧帝大」という言葉にこだわる。そこには、東大は別格で、各地の旧帝大はそれに準じる英才が集うところだという気持ちが込められている。しかし、東大がダメなら、九大という時代は過去に一度もなかったし、今もそのような大学序列意識を持つ地域は実在しない。九州、特に福岡県で九大に進学するのは自宅から通えることで、女子で特にその傾向が顕著だ。女子は、仮に東大、京大に行く学力があっても九大を選び、自宅から通うし、近県の高校からも週末に気軽に帰省できる福岡県の大学は選ばれる。それは理解できる。
そして、もう一つ、被差別部落でも指すように「私学」という言葉が使われる。これは、学力が低く、しかし、学内から登用するので、国語力も稚拙な教員が一部ながら混在し、学界の中で下劣な存在となっているという意味合いだ。
この場合の私学は、明治、中央、日大などが主に意識されている。確かに、威勢はいいが、パッとしない本を書いている諸先生もこれらの大学には多い。特に、左翼系の教員には、この手の教員が少なくない。
しかし、そのように私学をくくって小馬鹿にする一人、遠藤氏には、比較する論文さえなく、著書もない。比較不能な立場にいながら、拙い文章を書いて本にしている首都圏私学の教員をバカにする。
もう一つ、九州には西南学院を除く私学は、偏差値で40-55くらいの、とんでもないバカな学生が集まった大学が多数ある。そこには、九大から赴任して教員になっている者も多い。総じてキャンパスは非常にきれいで、恵まれている。
そうした私学をフリーランクの大学というが、学生は中学レベルの英語力、国語力がおぼつかないから、経済学や経営学などを教えても、答案らしい答案が書けない。
「講義(こうぎ)で話したことを何でもいいので取り上げて書いてください。ノートなど、何でも見ても構いません」とある大学の先生が学年末試験において口頭で指示した。この口頭がよくなかった。
講義という感じを正しく書いていたのは、実に2割程度の学生で、その他にも誤字脱字、漢字が不明で平仮名連発はあるが、講義が異なる綴りで何度も書かれていると、採点する側は悩ましくなるだろう。
また、その私学に早慶も含めているのに苛立った。早慶出身者が大企業の採用では中心であること、また、世代変わりして、中間管理職、役員クラスでも、国立大よりも早慶が多いことはビジネス誌などに繰り返し特集が組まれているし、週刊誌などにも出ている。決して、それは、慶應の三田会が密かに作った資料ではない。
また、早慶とは、伝統校である両校が野球などの試合をすることから生まれてきた言葉で、それは大正期以降の用語であり、それは、庶民に人気の早稲田、山の手のボンボンが多い慶應ということで、なんとなく早稲田を応援したくなるし、無料で野球やレガッタなどが見られるなど、庶民の娯楽だったので、早慶という並びなのだ。
ところが、設立の経緯などをよく辿ってみると、設立された時期、卒業生の活躍など明治から昭和初期まで慶應義塾が圧倒的に優位だったことがわかる。また、戦後も東大や一橋と併願されたのは主に慶應で、早大は政経を除くと、私立文系の受験生が集まるところだった。
東京大学の前身は、大学南校(主に語学系学校、後の法・文・理・工)、大学東校(後の医学部)が合併して発足したが、その両校には慶應義塾出身の教員が多数いた。当初は校舎も移転せずにいたが、総理と呼ばれる総括責任者が置かれ、加藤弘之が就任した。その際、総理補佐になったのは、濱尾新で慶應義塾出身。濱尾は帝国大の第3代及び第4代の帝大総長、東京帝大総長にも就任している。そして、東京大学は体裁が整って帝国大学と改称されたが、その初代総長は渡邊洪基で、慶應義塾出身の官僚だ。当時、38歳、東京府知事(今の都知事)からの横滑りだ。総長が慶應出身というほどなので、外国人教師を除くと、日本人教員は慶應がかなりいた。東京帝大に改称されたのは京都にも帝大ができたのが契機である。
慶應についてはあまり詳しくここに書けないが、銀行、生保、損保、製造業などの創設者が多数輩出され、財閥の支配人クラスにも卒業生が多かった。日銀が慶應閥だった時期もあるし、日銀総裁や大蔵大臣、商工大臣(今の経産相)にも慶應卒業生がたくさん就任している。他方、早大からはこのような人材はほとんど出ていない。むしろ明大卒の方に実業人が目立つ。
また、東京帝大法学部は高等文官試験免除など特典があり、エリート校だった。しかし、京大を含め、地方の帝大は格が落ち、中央官僚で出世した者などほとんどいない。こうした歴史から言って、「旧帝大」という言葉がいかに空虚か、わかるし、私学という括りにも意味をなさないとする、私の主張には根拠がある。
それらの尊称と蔑称は、自分の自我や立場、自尊心を再確認するために発せられたもので、江戸時代に士農工商の下に賤民を置いて、「下見て暮らせ」と江戸幕府が統治してきた遺風としか言いようがない。まさに、九州にあって、封建遺風を痛感させられた。
九州は、福澤諭吉や大隈重信など革新的な思想家、啓蒙家、政治家を生んだところだが、150年を経ても、封建遺風、江戸幕府の管理思想は根強く残っていると言ってよいだろう。
 慶應にビジネススクールがある。大まかに言って半分は学部が慶應で、海外名門校のMBAか、博士号を取得した人だ。他方、ほとんどが東大なのだが、企業からの派遣などでMBAを取得後、さらに博士号を取って、教員になった方も増えている。元官僚も少なくない。企業や官公庁から派遣留学させてもらい、研究者に転じる人は増えてきている。
 ここで、「ほとんど東大」と書いたが、私が知る限り、北大、京大、阪大、九大の学部卒の教員はいない。その一人、非東大卒旧帝大出身のある教授は、KBSについて語るとき、まず、学費が高いこと(一般の大学院の3倍程度)、また、旧帝大出身の教員が多く、スタッフが優秀だという。
 私は、その先生と親しくさせて頂いているが、ご自身の大学・学部(地方旧帝大文系学部)はせいぜい偏差値60-63であるのに対して、残りの「旧帝大」である東大が70以上である。私学でたとえるなら、早大と日大の差くらいは十分あるのに、双子の兄弟のようにセットになっているように強調する。しかし、国会議員にしても、東大以外の国立大はそれぞれ若干名しかおらず、歴代の首相でも、一橋(大平正芳)、東工大(菅直人)、京大(岸信介)は各1名いるが、残りの国立大学は、東大がほとんどで、旧制の水産講習所、現在の東京海洋大しかいない(鈴木善幸)。なお、次世代、あるいは相当先の宰相候補にも、東大以外の国立大卒業生は一人もいない。大半が慶應か早稲田だ。