草創期の東京大学

東京大学-その成立過程と重要な関わりを持った慶應義塾と学習院

JRCグループアライアンスにも2桁の東大卒・院卒が働いています。


1.地位低下が否めない東京大学
 最近になり、雑誌で「東大VS慶應」(『週刊エコノミスト』2013年7月9日号)という特集が組まれるなど東大の相対的な地位低下が指摘されるようになった。実際、上場会社の社長や役員は、東大を筆頭とする有力国立大が多かった。特に都市銀行などではその傾向が顕著で、多少ともそこに人材を送っているのは私学では慶應くらいであった。といっても、財界全体からすると、慶應の存在感は1980年代頃までそれほど大きくと言えるものではなかった。大企業の社長と言えば、東大の法学部、経済学部、工学部というのが定番だった。
 ところが、プレジデントが定期的に集計している上場会社の社長や取締役の輩出についての調査によると、2011年の時点で慶応義塾大学出身が圧倒的に多いことが明らかになった。しかも、看板学部とされる経済学部だけではなく、法学部、商学部が2位と3位を占めるなど圧倒的で、東大法学部はその次、4位となっている。また、早大も主要学部を中心にその地位を上げており、上位20位に登場する大学・学部というと、中央の法学部、京都大の主要な学部、一橋大学などになるが、絶対数から言って、慶應の圧倒的なシェアが明らかになった。東大は今や、経営層を輩出する大学としては上位ではあっても、圧倒的な存在ではないというのが現状なのである。

<大学学部別上場会社社長数:2011年、プレジデント調査>

2.危機感を持つ東大、それはなぜか?
 東大が9月入学を打ち出すなど次々と改革に取り組んでいるという。2016年の入学者から推薦入試を導入するという案も浮上しているという。なぜ、東大が改革急務だと考えるのか。
 それは、国際基準で評価すると、東大の評価は非常に低く、そればかりか、アジアの中で比較しても、香港大学やシンガポールのいくつかの大学より下位というのが実情なのである。
 ノーベル賞受賞がその大学の研究水準の指標として決定的だとは言えないが、米国の主要大学は毎年、候補者が数多おり、通算すると、様々な分野で30-50くらいの受賞をしている大学は珍しくない。しかし、東大卒で東大教授がノーベル賞を受賞したのは小柴昌俊氏が初めてで、日本における最近の受賞者の出身校は、神戸大、名古屋大、埼玉大、山梨大、徳島大、長崎大など、受験学力的に東大とは全く比較にならない大学の出身者である。
東大には全国から自ら秀才と自負する学生が集まる仕組みがある。しかも、日本の文教予算の半分が東大に割り当てられる。欧米に対して基礎研究への予算が少ないとしても、東大は科学研究費において日本において他の大学と比較にならないほど恵まれている。京大でさえ、東大の予算の半分で運営されており、その他の国立大学は残り4分の1を割り当てられているに過ぎない。
東大は研究拠点大学であり、モノづくりで定評のある先進国を代表する大学でありながら、その実績は惨憺たるものと言わざるを得ない。その中にあって、東大は自然科学分野でノーベル賞受賞において全く脇役であり、数少ない世界的な研究者は地方大学から輩出されてきたと言っていいほどである。
文芸の世界でもそうである。かつて明治から昭和初期にかけて文豪、作家と言えば、主だった人物が東大出身だった。しかし、大江健三郎あたりの世代を最後に、東大出身の作家というのはほぼ皆無になってしまった。東大に準じて文壇で活躍する人材を輩出してきた早大もその後、徐々に減り、この20年は、高卒、もしくは無名大学の出身者が文芸賞に並ぶようになった。
このような現象から、東大を筆頭にする受験という仕組みが劣化させ、あらゆる研究分野の低下をもたらし、東大卒業生の活躍にも陰りをもたらしているのではないかと考えられる。
東大が推薦入試を始めるという。そして、その目的は優秀な人材を集めるためだという。裏を返せば、一次と二次を併せれば4-5日間にわたり、何年もかけて周到に準備しなければ受からない東大入試では、優秀な人材が採れていないということを認めたことであり、推薦という書類と面接の試験は私立でも実施されているが、それはほとんどの場合、スポーツ選手などを入れるための手段で、学力試験では取れない優秀な生徒を選考するために推薦入試を行なうという例がない。
そればかりか、東大生は、長期間にわたる受験準備の体制から、心身ともに疲弊し、東大入試で問われ、それに解答すること以外には、心身がほとんど機能しない状態で入学する学生が多いのではないだろうか。東大生の一部は入学後、進振りという制度があるので、多少とも成績を気にする学生が多いという。しかし、過去問のコピーなどをもとに試験対策をし、なるべく点の取りやすい科目を履修して得点を重ねていくだけで、自発的で主体的な学びをするわけではない。進振りを強化することで、東大を発奮させようという意見があるが、京大は逆に転部が自由だったのをやめて、学部ごとに特徴を持たせた入試を行なうことにし、大半の学部が論述試験のみ、従来の学力試験を廃止することを決めた。
東大卒業生の活躍状況を見れば、東大入試と同じようにたくさんの科目を準備し、受験する国家公務員Ⅰ種の試験では圧倒的な存在感を示している。主要な省庁は、国Ⅰに受かっても、直ちに採用するわけではない。東大、それも法学部を中心とする指定学部があり、東大の文学部や教育学部などから、主要な官公庁に採用された例はない。
また、米国の優秀な学生は就職せず、直ちに起業する者が多いというが、東大では起業した者も見当たらない。いても、ホリエモンのように、まるで実体のない虚言と妄言による虚構だったりと散々で、東大発の起業がいかにいかがわしいものかということを世に知らしめた。実刑4年となり、服役した後も、反省の色がまるでなく、見解が違った程度にしか思わず、何食わぬ顔してテレビなどに出演している。かつてこのような人物がいただろうか。
同じ時期にインサイダー取引で後に起訴され、有罪になった村上ファンドの村上世彰も、キャリア官僚を経て「モノ言う株主」として脚光を浴びたが、元の同僚である官僚からあれこれと情報収集し、とてつもない規模でインサイダー取引をしていたことが発覚した。活躍していた時期は革新的で、ずば抜けた秀才中の秀才のように言われたが、事件の後は東大卒業生のモラルの欠如、社会的ルールを自分の都合のいいように悪乗りする代表格のように見なされたが、事件発覚後も関連事件があり、村上絡みの捜査は東京地検で長く続いているという。というのも、村上があちこちから裏情報を聴いたというのであれば、教えた相手もいるからである。そうした人たちも対価なしに村上に力を貸していたとは考えられないからである。
東大の長い歴史の中で、大手上場会社になった創業者は一人もいない。あくまでも官僚組織や民間企業でも大手企業の中で、幹部候補生として扱われ、昇進していったに過ぎない。東大法学部で首席だったことで総理にまで登用された人物もいる。加藤高明とそれに続く若槻礼次郎である。大正末期から昭和初期のことだ。しかし、二人とも、毅然とした意思決定はできず、優れた宰相であるどころか、並み以下の状態だった。
東大出身の政治家は数的には多いが、その中で相応の人物だったというのも数えるほどである。現職の政治家を見渡しても、傲慢で唯我独尊で人望のない舛添要一(東京都知事)のほか、宰相候補とされつつも、国民的な支持が全くない谷垣禎一や加藤紘一などが代表的で、現在、将来の有力政治家になりそうな人物に東大卒は全くいないといい状況だ。

3.現状、東大生の進路はどうなっているのか
東大卒業生の進路はどうなっているのだろうか。東京大学は学部ごとに卒業後の進路がどうなっているか集計し、ホームページで開示している。ここから進路状況を推し測ることは必ずしも容易ではない。
また、就職先については開示されていないので、どこまでが真水の数字なのか、判断することが難しい。そこで、学部別に検討していこう。

<東京大学卒業生進路状況:平成22年度>







まず、法学部だが、417名のうち173名が進学者で、この多くはロースクールへの進学だと考えられる。就職者は185名と絶対数が少なく、他方、進路未決定者が15%弱おり、これはかなり高めの数字だと思われる。少なくとも、東大法学部を出ても無条件で引く手数多だった時代は終わったということだ。この未決定者は一体、どこへいくのだろうか。
次に、経済学部だが、進学率が私学の経済学部と比べてかなり多いものの、就職は76.8%で、進路未決定者は10%未満なので、東大の中ではやや良好である。
次に、文学部と教育学部は傾向が似ており、おおむね4分の1が進学、6割程度が就職をどこかに決めている。進路決定率は、全体平均の89.5%をやや切っているが、とんでもなく低い数字ではないことがわかる。ただ、この2つの学部の卒業生の進路に、受験産業が少なくないことも特徴で、長期にわたって安定した雇用が得られる業界かというと、疑問を残す。
次に、工学部だが、修士に進んでから就職するという学生が多いので、84.3%の進学率は他の国立工学部や有名私学理工系と比較しても同等のものと言えよう。気になるのは、進学も就職もしない10%をやや超える卒業生がいることである。
なお、過去の数字で、進路未決定率のみを調べたところ、平成14年で12.3%と最近の数字と差がないのだが、平成15年は17.3%とかなり高く、大雑把に言って、東大を出ても5人に1人くらいが進路なしに卒業していく時期があったということである。
また、ここに隠れた現象なのだが、法学部と工学部を除くと、東大の進学率は25-30%である。修士課程から博士課程に進んで研究者のポストを得る者もいる。しかし、大学院が拡張した現在、そのように職にありつけるのは3割程度なのである。東大がそれよりも多少、多いとしても、修士課程を出て進路がない、あるいは、博士課程に進んで、その途中、あるいは、満期である6年在学して何もないということは半数にも及ぶ。東大とその大学院を終えてなお進路未決定者がおおむね3000人強の学部卒業生に対して30%程度弱、卒業学年単位で見て900人程度、生じているということである。この人数と学部卒業時の300名強を合わせると、卒業後、5-8年後に進路を決めている者が1800人とおおむね3分の2程度、それ以外は定収入のない状態で、世に言う一流企業に収まっているのは、法学部または経済学部を新卒で就職した500名と、工学部の修士を卒業して就職していく800名、合計にして1300人のうちの8-9割程度、実数にして1100名程度になってしまう。これは、東大卒業生の3分の1にしかならない。
また、東大から民間企業(大手上場企業を想定)に進む人数が1000-1100名程度しかいないということが続けば、当然、早慶などの私学に対して劣勢となる。慶應の場合、経済学部、法学部は1200名、商学部は1000名の定員である。早大は近年、主要学部の定員を削減して新設学部の定員に充当しているので、学部ごとには定かではないが、実業界に送り込む人数は、慶應とほぼ同じ程度で推移している。それは、低く見積もっても、2500人、東大の進学率、進路未決定率などを参考にして文系だけで3000人になる。
東大は総数にしても最大500名程度しか人材を送っておらず、早慶はその5倍以上を送っているというのは差になるが、東大卒なら幹部候補生扱いということが今やなくなっていることは、進路未決定率が一時的に2割近くなり、その後、大学院拡張でその数字が1割程度に下がってはいるものの、数年後の時点で見れば2割程度、あるいはそれ以上になっていることから、その観方がある時点以降、変わってないことは明らかである。
さて、東大生だからといって特別扱いはしない。あくまでも新卒採用において等身大に学生を評価するようになったのは90年代後半以降のことである。

4.東京大学成立の過程と主要私学の開設
東京大学の成立過程はかなり複雑で、細かく事実関係を示してその歴史を記すと非常に長くなってしまう。教育社会学者の天野郁夫氏の著述(『大学の誕生』)に従い、なるべく簡略に述べたい。
まず、東京大学が成立したのは明治10年である。それ以前から、各藩には藩校があり、適塾など個人的に運営される私塾もあり、さらに幕府には昌平坂学問所と蕃書調所があった。このうち、昌平坂学問所は、国学と漢学を行なう「本校」とされ、蕃書調所は洋書調所と改称され、「大学南校」と呼ばれるようになった。医学校は「大学東校」と呼ばれるようになった。
ところが、明治3年になり、本校の中の国学派と漢学派が抗争を繰り返すようになり、政府は本校を廃止するに至った。また、語学別に学科を編成するというものから、法科、理科、医科、文科といった具合に、専門分野別に設立していくという方向性が固まった。とはいうものの、大学南校は、英語、ドイツ語、フランス語を教える程度の語学学校という状態であった。他方、大学東校は、蘭方医の伝統があり、それなりの水準には達していた。しかし、医学において、オランダとドイツでは格段の差があり、ドイツ医学を中心に切り替えていくことが課題となった。しかし、これら2つの学校を欧州におけるような大学とするにはまだ道遠しという状況だった。
そうした中、明治6年になり、専門学校令が公布され、それまで私塾だったところなどがこの専門学校という枠に収められることになった。後に東大となる、大学南校はこれに伴い、開成学校と呼ばれるようになり、大学東校は東京医学校と呼ばれるようになった。また、開成学校は、専修語学を英語に絞るようになった。明治10年に、2つの学校は合併し、東京大学となったが、新しい校舎が作られたわけでもなく、それぞれの校舎でそのまま教育を続けたので、外見上、何の変化もなかったという。初代総理が置かれたが、加藤弘之が就任している。
さて、こうして成立した東京大学であったが、その時点では、専門学校と差がない者であった。設置された法科大学、文科大学、理学大学、医科大学のうち、文科大学に設置された和漢文学科を除くと、医科大学は全員がドイツ人教師で、その他の学科でもほとんどすべて外国人教師で、授業はもちろん、試験なども外国語で答えるという状態であった。
大学で外国語を必要とする以上、そのための予科を作らないといけない。それは、語学教育を行なう学校が必要となったが、過渡的には、開成学校が新設の東京外国語学校(現在の東京外大とは関係ない)と合併し、全国7か所に分校を置くようになったが、明治7年には、英語学校とされ、大阪校(その後は不明、少なくとも大阪外大とは無関係)以外は廃止され、その後、東京の英語学校は東京大学に統合され、大学予備門と呼ばれるようになった。この大学予備門は、一時的に第一中学という名称となるが、後に旧制第一高等学校となる。
文部省以外の省庁が設立した専門学校として、工部省の工部大学校、司法省の法学校、開拓使の札幌農学校、内務省の駒場農学校があった。工部大学校は、イギリス系、法学校はフランス系、これらは、いずれも官費で学ぶことができ、全寮制、卒業後は任官まで保障されていた。しかし、工部大学校は開学して3年で廃止され、工部省そのものがその後なくなってしまった。
札幌農学校は、マサチューセッツ農科大学元総長のクラークを中心とした学校である。札幌農学校は明治13年に最初の卒業生を出したが、明治15年には財政難で開拓使そのものが廃止され、農商務省に移管されるが、その後は志願者も低迷を続け、どうにか存続するという状態となった。
東京大学では、外国人教師がほとんどで、お雇い外国人がそれぞれ我流に行なうため、大学としての連帯感も一体感もなく、共通の枠組みがあるわけでもなかった。そこで、明治14年になり、東京大学は総理の下に、法科大学、文科大学、理科大学、医科大学を置いていたところ、それぞれ学部と名称を変更し、教授は日本人に限るとし、外国人は外国人教師という呼称になった。また、助教授もこの時に定められ、その後、長くこの呼称は用いられている。
ところで、成立当初の東大の学部別の卒業生数はどの程度だったのだろうか。天野郁夫によると、明治13-18年の卒業者数が示されている。平均値をとると、法学部が約8人、医学部が約25人、理学部が約20人、文学部は約8人である。
このうち、文学部には和漢文学科と哲学史学及び政治学科が置かれていたが、哲学専攻者は1名、史学は0名という時期が続き、哲学及び政治学科に名称が変更された。また、文学部に置かれた政治学科はその後、法学部に移管され、それと同時に、政治学に含まれていた理財学の講座も法学部に一旦移り、法学部に政治学科が設置された。
その後、明治41年(1908年)、経済学部が設置されて、理財学の講座が法学部政治学科から独立することになった。これは、日本で最初の経済学部で、大学令(大正7年/1919年)で私立大学が大学に昇格することが認められた際にできた、慶應義塾大学をはじめとする経済学部に先行するものである。
さて、この当時(明治16年から20年頃)、東大法学部には危機感があった。それは、東大法学部で学士を送り出しているものの、その数が非常に少ないことであった。東大法学部には、一貫して長く、高等文官試験免除で任官できるという特典があったが、専門学校令に基づく私立の法律学校が日本語で教育することや、入学者の選抜を特段行なわないこともあり、この時期からしだいに巨大化していた。中でも、東大関係者に脅威とされたのは、東京専門学校(後の早稲田大学)、明治法律学校(後の明大)、専修学校(後の専修大)だったようだ。
なお、後先になるが、私立法律学校の設立について触れておく必要がある。まず、先鞭を切ったのは明治13年設立の専修学校だった。大学南校や開成学校、留学帰国者などが集まり、当初は慶應義塾の夜間法律科として開設したが、その後、専修学校となった。ただし、同校は、日本で最初の理財科を作り、経済学を中心とする学校として発展していくことになる。
次に設置されたのが明治14年の明治法律学校で、司法省法学校の卒業者によって設立され、フランス系の法律を学ぶ学校であった(後の明治大学)。また、同年、東京法学社が設立され、同校は後に設置された和仏法律学校と合併し(明治22年/1889年)、その後の法政大学となった。
その後、明治18年になり、東大法学部教授が中心になって設立したのが英吉利法律学校(後の中央大学法学部)で、それは、英米法こそ正統とする東大法学部関係者からすると、まさに正統な嫡子であり、その後、戦前期を通じて、東大以外では、私学法律学校の中で図抜けた実績を残し、戦後も1970年代まで、その勢いは続いた。
他方、政府や東京大学にも強い衝撃を与えたのが東京専門学校の設立である。明治14年の政変で明治政府を追われ、野に下った大隈の発案で、創設されることになったが、その中心にあったのは小野梓で、英米に留学し、政治学や経済学を学び、帰国後は会計検査院などに任官し、大隈の下野に伴い、政府を辞職し、創設のために協力を求めたのは、天野為之、高田早苗など東京大学の卒業者7名だった。明治15年、法学部卒業者8人のうち3人、文学部卒業者4人のうち3人が、この反体制的な大隈の学校の教員となるという事態に、文学部の教員だったフェノロサも、国家の重点校たる東大の卒業生が任官を放棄し、その責任を放棄するのは何事か、と述べたという。
ただ、後に早稲田大学となる東京専門学校は、設立数年のうちに理学科を廃止し、法律科もほとんどの教員を英吉利法律学校に奪われるなど一時的には政治経済科中心の学校になった。しかし、留年して遅れた教員となった坪内逍遥を中心に設立された文学科が学生数を増やすことになり、また、後に初期の経済学者として高い評価を受けた天野為之が理財科に相当する商科を設置し、明治の終わりごろには、早大の入学者の8割ほどが商科になるようになり、学生の確保に大いに貢献した。
本来、後先になると思うのだが、慶應4年(1868年で、途中から明治元年)に英学塾から設立された慶應義塾は、明治の草創期、重要な存在であった。まず、創設者である福澤諭吉は、英米型の政治体制や経済の仕組みの実現を目指す啓蒙者として、明治の初めから、明治時代の前半期に大きな影響を与え続けた人物である。
東京大学そのものは早くから設立構想があったものの、明治15年から20年頃にかけて、官吏となる法学士の育成に苦労しており、その時点で、十分な卒業生を送り出しているわけでもなかった。したがって、明治の初期、明治政府の官僚として重点校だったのはほかならぬ慶應義塾だったのである。
また、明治3年頃から、華族のための学校である学習院が設立されるまで、その当時、最も体裁の整った学校として、華族が学んだ学校は慶應義塾だった。さらに、草創期の慶應義塾は、明治政府の要請を受け、初等教育の普及のために、塾生を無償で全国に派遣するなど福澤は政府に対する支援を惜しまなかった。
ところが、明治14年の政変で、大隈重信らが下野した際、大隈のブレーンとされた明治政府内にいた慶應義塾の卒業生も多くが辞職した。大隈は、福澤の助言もあり、学校設立に着手し、その試みは政府や東京大学に脅威となるが、その後、福澤は、言論界と実業界に人材を送るようになった。福澤の教えを乞うた弟子たちが、日本を代表する生命保険会社や銀行、電力会社、電鉄会社などを次々と設立し、最大の起業家養成校となったことは目を見張るべき出来事である。
ただ、慶應義塾は、福澤が政府の法律や決め事に無頓着だったこともあり、明治9年までは、外国語学校に分類され、それ以降も慶應義塾医学所として登録された時期があるが、これも数年で、専門学校令が発布された後も、ここには含まれていなかった。当時の慶應義塾は、徹底した英語教育とそれに基づくリベラルアーツを教育する中等教育と、専門学校には相当するものの、経済学、簿記、商業、数学、物理、化学などを幅広く学ぶところだった。
慶應義塾が大学部設置を試みたのは明治19年のことであったが、これには、東京大学の成立にも触発されてのことかもしれない。この時、ハーバード大学の総長に相談し、文科、理財科、法律科を設置し、それぞれを担当する外国人教師(二人はハーバード大学教授で、一人はブラウン大学出身の教授)を雇い入れた。しかし、文科と法律科には学生が集まらず、数人の在籍に留まり、理財科のみが、ある程度、まとまった学生を集めることに成功した。これは、福澤が文芸などを好まず、文科の教育内容を歴史や哲学など実学とされるものに限定しようとしたこと、後に述べる私立法律学校と異なる法律科で、大学部はいずれも草創期の東京大学のように、外国語による授業が主だったことが敬遠されることになったものと考えられる。
私学の経営は当初から経営難になり、慶應義塾が最初に、授業料の徴収を定め、その後、東京専門学校がこれに続いた。それは、両校がいずれも専任の教員を抱えていたからである。その他の法律学校は、東大法学部教授などの兼務で、ほとんど非常勤講師で運営されていた。その違いが、慶應と早稲田を飛躍的に他の私学と差をつけることになった理由ではないかとされている。慶應と早稲田は自前で教員を育成し、再生産をするようになったが、私立法律学校は長く、東大教授が空いている日に講義にやってくる場所でしかなかった。
慶應義塾では深刻な財政難に陥った際、福澤諭吉自身、廃校を決意したという逸話は有名である。しかし、その際、社中一致の団結の下で、卒業生が進んで募金を行ない、学校の存続を可能にした。いわゆる卒業生の募金を集めるという習慣は慶應義塾が日本で初めて成功させたことなのである。
他方、早稲田大学は専門学校令の下で、既にこの名称への変更を認められていたが、後に見るように、圧倒的な在籍者数がおり、数ある私立の法律系専門学校の中でも随一と見られたのだろうと考えられる。さらに、草創期に東京大学から着任した教員の一人、高田早苗は、後に貴族院議員になり、大隈重信が組閣した際は文部大臣にも就任した。終始、高田が早大の大黒柱となり、その威厳を保つ役割も持った。
なお、明治政府の学制では、正式な届け出などをほとんど行なっていなかった慶應義塾だが、明治政府に人材を送った時期もあり、実は、まだ諸学校を集めただけの状態だった東京大学が一定の体裁を整え、帝国大学として再スタートした際、その初代総長は渡邊洪基が就任し(当時39歳)、その後、渡邊は東京府知事、オーストリア行使、学習院次長などを歴任している。また、濱尾新も慶應義塾出身だが、帝国大学総長に就任した後、東京帝国大学総長にも就任している。東大が自前で総長を輩出したのは昭和に入ってからで、小野塚が初めてである。続く長與は、東京帝大医学部卒だが、慶應義塾幼稚舎に学んだ経歴を持つ。その他の人物は、藩士、あるいは、東京大学が整備される前の幕府の学校や前身の学校に学んだ者である。

<東京大学の歴代総長>


東京大学法学部出身の総理は、加藤高明が最初である。着任したのは大正期の終わりから昭和初期にかけての2年間、それに続く若槻礼次郎も東大法学部卒の大蔵省官僚だった。若槻は史上最高の成績(100点満点中98.5点)で東大法学部を卒業したことで知られるが、宰相としての手腕は見るべきものがなかった。
さて、東京帝国大学が成立するとともに、明治30年、京都帝国大学が成立した。京都は当初から自由放任を旨とすることとされ、意図的に東大とは異なる学風で運営されることになった。その後、大正5年までに、東北帝国大、九州帝国大、北海道帝国大が相次いで設立され、その時点で正式な大学というと、この5つだけということになっていた。
私立大学が大学令で大学に昇格することが許されたのは大正7年で、その当時までに体裁を整えていた私立の専門学校が一斉に正式な大学として認められるようになった。ただし、慶應義塾は独自に大学部を明治19年頃から設立していたし、東京専門学校は、明治35年(1902年)は、早稲田大学と名称変更することが認められていた。
明治の後半から大正期にかけて私学では、慶應義塾と早稲田大学が圧倒的な威信を持つようになっていたとされている。慶應は他の私学と比べて成立時期がかなり早く、東京大学が整備されるよりも前に、医師や教育者、研究者、官僚、実業家、言論界などに人材を送り出していた。したがって、東大でさえ、草創期の総長に慶應義塾出身者を置いたほどである。他方、早稲田大学はその設立で政府や東京大学が脅威を覚えるほど衝撃を与えてスタートした。しかし、財政難に直面する中、学生を選抜しているような状況ではなくなった。
明治35年における私立専門学校の在籍者数に関する資料をまとめてみた。薬学や歯学などの諸学校を除き、集計し、その占有率を計算してみると、早稲田大学に圧倒的な人気があり、全体の21%にも相当する。しかも、早大はこの後に、他大学に先駆け、天野によって商科を設置し、その学生数が早大入学者の8割という時代を迎えるので、圧倒的な求心力があったと言える。
これに対して、早くからレベルの高い教育を行ない、明治時代の啓蒙家として屈指の人物だった福沢諭吉が創設した慶應義塾は、普通部と呼ばれた中等教育を出た後、大学部に進学する者が少なく、総数にして320人とあるが、文学科と法律科は数人しか在籍しておらず、実質的に理財科中心となっていた。法律科には政治学科も設置されていたが、やはり数人しか在籍していなかった。
現在の明治、日大、中央、法政、専修がこの時点における主要私学と言えるが、明治と法政はフランス系、日大は初代司法大臣の作った司法省系、中央は、東大法学部の英米法系の教授が作った正統の嫡子とされた。専修大学はもともと法律科でスタートしたが、この時点で理財科だけの大学に改編されている。また、明治、法政、中央は専任教員がおらず、東大教授や司法官などが講師を兼務する状態で、東大法学部の管理監督下に置かれていた。そうではなく、高等文官試験などの受験指定校は、早大、日大、専修、関西大だけだったようで、慶應の法律科は、外国人教師を雇い、レベルの高い教育をし始めたが、このような事情も関係していた。また、慶應義塾は、東大と同じように、英語など外国語で教育することを前提にしていた。これに対し、当初から日本語での授業を行なった早大と各専門学校には敷居の高さが異なった。東大でさえ、日本語での授業に切り替えていった時代に、慶應の英学によるリベラルアーツ教育は好まれなかった。

<明治35年当時の専門学校の学生数一覧>


5.東京大学と深い関わりを持ち続けた華族の学校・学習院
学習院に関しては、浅見雅男氏の著作に沿って、やはりなるべく簡略に要点を述べたい。まず、旧制学習院(明治から敗戦後まで)にはその前史がある。京都に設置された学習院を、後の学習院と区別するため、京都学習院と呼ぶことがある。
学習院の歴史は幕末以前にさかのぼる。平安時代から江戸時代末期であるから、実に600年ほどの間、公家を対象にした教育機関は長らく不在だった。
平安時代末期の安元の大火(治承元年)(1177年)により、律令制による大学寮が焼亡、廃絶して以来、公家の子弟のための公式の教育機関が存在しなかった。そのため、上級の公家においては、学者を招いて子弟を教育するといったこともあったが、大半の公家は知的な水準も落ちて、学問を学ぶこともなく、京都の花柳界で遊んで暮らすという時代が長く続いたようである。
こうした事態に危機感を募らせていた光格天皇は、大学寮の再建を構想していた。しかし、経済的な問題もあり、その実現はすぐには困難だった。次代に当たる仁孝天皇は学校創立を実現させるべくこれに着手し、江戸幕府の承認を得て天保13年(1842年)、学校の設立が決定、弘化3年(1846年)、京都御所建春門外の開明門院跡に講堂が竣工した。翌4年(1847年)3月、講義が開始され、三条実万(三条実美の父)が初代の伝奏(学長)に就任した。
当初、この学校の名称は「学習所」「習学所」など一定しなかったが、嘉永2年(1849年)、孝明天皇が「学習院」と記された勅額を下賜して以降は学習院を公称とした。教科は儒学(朱子学を中心に、古学・陽明学も含む)を主とし、これに和学(国学)を取り入れたもので、聴講者(生徒)は堂上・非蔵人の公家の子弟、授業は会読・講釈を中心としていた。非蔵人とは公家ではないが、朝廷で様々な手伝いや用事を行なう者のことを言う。
文久2年(1862年)7月頃より学習院は、桜田門外の変の後に急増した朝廷と諸藩の間の折衝の場にあてられるようになった。すなわち、尊王攘夷を掲げる公家と長州藩が密会する場となったのだ。また、翌3年2月、無名の投文・張紙などの横行に対応し陳情建白の類を受け付ける機関ともなった。それに伴い、学習院では、尊皇攘夷の急進派が集い、国事を議論する場となるようになり、他方、「学習院御用掛」として任命された高杉晋作・真木保臣・福羽美静ら各藩の志士が、尊攘派公家とともに攘夷決行の密謀をめぐらした。
しかし、文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」により尊攘派公家の処分とともに長州藩などの関係者も出入りを禁止され、陳情建白の受理も停止された。さらに、元治元年(1864年)以後、教官には比較的政治色の薄い伴信友学派の国学者や咸宜園の儒学者が登用されるようになり、学習院は本来の教育機関としての姿を取りもどし、大政奉還に至った。京都における政治的混乱の影響により、学習院は一時閉鎖をよぎなくされていたが、慶応4年(1868年)、新政府によって復興され、「大学寮代」と改称された。
一方、この頃には新政府より新しい学校制度の調査を命じられていた矢野玄道ら平田派の国学者が国粋的な「学舎制」を答申していたため、学習院の漢学者たちはこれに抵抗し、結果として新政府は明治1年(1868年)国学・神道を講じる皇学所と漢学・儒学を講じる漢学所の並立を決定し、これに伴い、学習院(維新後は、大学寮代)は新設の漢学所に解消される形で廃止された。つまり、ここで、京都学習院は消滅してしまったのだ。
その後、後身機関である漢学所は、1年後の明治2年9月(1869年10月)「大学校」設立のためと称して皇学所とともに廃止された。しかし、猛烈な再開運動が起こり、同年12月には旧皇学所と統合され「大学校代」に改編された。ところが、東京遷都により生徒の減少、国漢両派の対立により全く不振であったため、翌明治3年(1970年)8月、官立学校としては廃止されるに至った(形式上、その後、京都府立になり、第一中学となった。しかし、旧制の公立中学と学習院を関連付けて考えるのは無理だろう)。
このような和学/国学と漢学の覇権争いは江戸の末期から明治にかけて激しく繰り広げられたが、京都学習院は本来、後に東京大学となる諸学校につながる流れを汲んでいた。しかし、東京大学が、大学南校と大学東校の合併で成立したように、幕府の昌平坂学問所の系譜を持つ大学本校は、国学と漢学からなっていたが、その抗争が激しく行われ、東京大学について述べたように、明治政府によって廃止されてしまった。京都学習院においても、そのいきさつはやや複雑なのだが、同じような構図があり、最終的に、別々の学校として分離された後、消滅している。
明治10年(1877年)、東京神田錦町に学習院が開設された。これは、幕末に向かうに従い、公家(華族)の知的水準の低下と風儀の乱れが顕著で、モラルも退廃していたという。奈良、平安時代は大学寮が置かれ、公家の教育がなされたが、中世になると、廃止され、上級の公家が学者を自宅に招いて子弟を教育するということは、大半の公家はそうしたこともなく、学問から遠ざかってしまったことからである。
対象とされたのは、15歳から40歳以下の公家なら希望すれば誰でも入学することが認められた。さらに、朝廷内の雑務を行なう非蔵人と呼ばれる者も学ぶことが許された。実際には、天皇側近に仕える近習(きんじゅう)と呼ばれる若者が中心となったようである。また、華族でない者が入学することが認められ、相当数、あった。ただ、その多くは身分上、士族や平民であっても、富裕な層、家系の多くが高級官僚だった者などが主であった。そして、華族は学費免除、非華族は学費を払うという仕組みが長く続いた。
内容的には、四書五経や史記を主とする漢学、古事記や日本書紀などの国学だったが、漢学は月に3回、国学は月に1回の頻度で開講された。月に4回という開講は考えてみればのんびりしたものである。当初、学習院は、定期的に勉強会を行なうという緩やかなものからスタートした。
天保9年(1838年)に開学された緒方洪庵の適塾の場合、福澤諭吉の回想によると、塾生たちは昼夜分かたず書物を読み、眠くなれば、机に寄りかかって仮眠する程度で、布団や枕など使ったことがないという。毎月の成績で座席なども変わり、後から入った者でもたちまち成績を上げて教える側に回る仕組みで、身分やそれまでの修学経験など一切関係がなかった。福澤は2年で塾長になったが、この方式を慶應義塾でも採用した(ただし、明治30年代くらいまでとされている)。
明治2年、政府は、公卿(摂政、関白、大臣、参議など朝廷の高い地位にある者のほか、公家全般)、諸侯(大名のこと)を華族とすると定めた。これに伴い、華族には、政府から家禄が与えられ、相応の生活をすることができるようになった。しかし、華族の中には十分な暮らしができない者、また、地方の小さな藩の藩主は名ばかりで家禄の少ない者もいたようだ。もちろん、平民とされた者に、政府からの給付などなかった。
明治16年(1883年)、天皇から下賜された資金や華族からの寄付で新たに学習院が整備される。この学習院は、明らかに官立学校なのだが、華族総代・岩倉具視が東京府知事に対して開業願を提出したが、この際、「私学開業願」として提出された。事実上、半官半民であったが、法的には私学としてこの時、開学されたのである。この中で、教育内容は文部省の定めた規則に従うものの、専ら華族の教育を目的とするので、その点に配慮すること、学校長は華族から選ぶが、教職員は士族、平民を問わず適任者とする、とされた。
学習院が設立された東京神田錦町は現在の神保町界隈に当たるが、近隣には草創期の東京大学もあり、当時は文教地区となった。当初、学習院は、6歳から22歳までの教育課程を置くと構想された。しかし、入学した学生数が少ないこともあり、その構想はたちまち頓挫し、高等教育の課程を置くことはできず、12歳から18歳までの男子学生が学ぶ課程と別に、和文学、漢文学、英文学の課程が置かれる程度だった。しかし、徐々に整備されていき、明治26年(1893年)には、政治家や軍人を育成する目的で、大学科が設置されるに至った。
学習院は入学試験が実施されたが、それは学年を決めるためだけのもので、実際には志願した者全員が入学できるようになっていた。また、授業料は華族に限り免除されていた。他方、非華族で入学を許された者には、学費が課せられた。しかし、こうした学費免除の制度はなくなり、大正13年(1924年)に、入学検定料と授業料を徴収するようになった。この当時の高等科の授業料は65円だったが、同時期の慶應義塾の高等科は100円だったので、学習院の授業料は改訂されたとは言え、安かった。
慶應義塾の評価については識者によって異なるのだが、明治6年(1873年)に徴兵制が敷かれた際、官公立の学校に在学する者に限って免除されていたが、慶應義塾は私塾として唯一、例外的に免除されていた。明治12年(1879年)になり、学生の徴兵は免除されるようになったのだが、明治初期における慶應義塾の評価が低くなかったことを示す理由の1つである。
慶應義塾は開学してから明治30年代まで非常に厳しく教育する学校だったとされている。草創期の卒業生は、財閥の中枢となった人物も多く、銀行や生保、電力、電鉄など多くのインフラ企業を事業化した卒業生がいる。しかし、しだいに事情が変わり、谷崎潤一郎の小説など(例えば、『痴人の愛』)では、大正期の慶應ボーイは学業にはそこそこで、銀座あたりで飲み歩き、素行もよろしくない、良家の子弟が集まっているところとして描かれている。しかし、一方で、その明るく、自由な雰囲気を、海辺で遊び、ボートなどを趣味とする太陽族として、弟の石原裕次郎をモデルにして昭和30年代のキャンパスを肯定的に描いたのが、石原慎太郎の『太陽の季節』である。
さて、官立学校と慶應義塾に認められていた徴兵免除なのだが、数年後、改訂されることになった。徴兵猶予は官公立学校に限ることとし、私学には免除を認めないとされたのである。あからさまな「官尊民卑」である。これにより、慶應や早稲田から退学する者も現れ、小規模の私塾は破綻するに及んだ。また、この頃、私学に対する嫌がらせもずいぶん行われた。政府からスパイのような学生が紛れ込み、政府を批判するような発言をしていないか、監視していたのである。この時期、慶應義塾は、急速に学生数が減ったとされている。
この際、それまで官費で賄われているものの、形式上、私学だった学習院は、徴兵を逃れるために、官立になることを望み、交渉の末、宮内庁直轄の学校に繰り入れられた。しかし、明治22年(1889年)には、再び、官立、私立を問わず、学生の徴兵免除が認められるようになった。
学習院は徴兵制をきっかけにして官立学校にはなったものの、文科省管轄ではなかった。そのために、他の高等学校(学習院では高等科)で認められていた帝国大学への無試験入学の特権について制約されていた。特に、大学科が一時的に廃止された際に、大きな問題になった。旧制第一高校などから進学者で東京帝大の各学部各学科の定員充足し、なお、定員が余る場合に限り、学習院からの推薦により無試験での入学が認められるようになった。定員が充足されなければ、応募の機会がないというのだ。
東大の場合、文学部では例年、定員に満たない学部学科があり、この制度で志賀直哉、里見弴、武者小路実篤、柳宗悦などが進学している。学習院から東京帝大に進むことは定員が空いた場合のみということで法学部と経済学部などへの進学は、難しかったが、京都帝大にはほぼ全入だった。そのため、学習院高等科を卒業した者は多く京都帝国大学に進んだ。当時、大学は東大といえども、入試はやっておらず、あくまでも旧制高校卒が進学の条件であり、高校からは推薦が基本であった。学習院高等科も例外ではなく、帝国大学は入試をすることは基本的になかった(法学部が一時、語学のみで入試をした時期がある)。
戦後の宰相として代表的な人物の一人、吉田茂は、土佐藩の志士、竹内綱の五男として生まれたが、父である綱は自由民権運動を積極的に行ない、不遇な人生を送った。そのため、茂は、福井藩の下級武士で、綱の親友だった吉田健三の養子になった。健三は幕末に英国に留学し、明治元年に帰国、優れた英語力と抜群の商才で、瞬く間に財をなした。しかし、明治22年(1889年)、40歳で死去し、茂には当時の金にして50万円(現在の貨幣価値で数十億円)の財産が残された。
吉田は、養父が亡くなった年に小学校を卒業し、その後、私塾に入ったり、日本中学に在籍し、さらに高等商業学校(後の一橋大学)、正則尋常中学校、東京物理学校などに在学、転校を繰り返した後、明治33年(1900年)に学習院中等科6年に編入した。吉田がこのように学校を転々とした事情は定かではない。
吉田は、旧制高校を受験するつもりだったが、結膜炎にかかり、1年ほど休学して療養し、箱根から東京に戻ってみると、たまたま学習院の募集があり、そこに入ることにしたという。吉田は、学習院高等科で好成績を上げて東大法学部に入学してやろうと考えていたらしい。しかし、この進路がなくはないが、年度によっては該当者なしということを、吉田は承知していなかったのかもしれない。
明治34年(1901年)になり、吉田は、学習院高等科から大学科に進学した。これも当初の吉田の希望からすると、奇異な選択だった。学習院の大学科は最初、別科として置かれ、その後、大学科になり、一旦、廃止されたこともあったが、明治31年(1898年)、近衛篤麿が院長に着任すると、再び、外交官育成を目指して大学科が再開されたのだった。吉田は、外交官育成ということなら、これに進もうと考えたようである。
ところが、近衛が亡くなり、大学科に在学する学生が少ないという意見も出て、再び、廃止すべきという意見が出て、2年ほど後、廃止されることになった。吉田が在学して4年目となったばかりの時だったが、廃止を見越して1年生はゼロ、2年生は全員退学してしまった。
ところが、学習院大学科の学生(3年、4年)は帝大法科の各学年に編入することになり、吉田もそうすることにした。もし吉田が1年早く、学習院に入り、進級していれば、そのまま、学習院大学科法科を卒業することになっていただろう。吉田は、明治39年(1906年)7月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、その年の9月の外交官試験に合格し、中国天津の領事館に配属された。学習院は外交官養成のために大学科を作ったが、中退とはいえ、それを成し遂げたのは、結局、吉田茂だけになってしまった。