職能資格制度が失敗してしまう理由 ~現場実務から見た楠田理論の批判的検討~


寄稿先:隔月刊看護部長通信



長らくタブー視されてきた職能資格制度批判

のっけから私事で恐縮だが、私は今年40歳になる。26歳で金融機関系のシンクタンクに入社し、人事系のコンサルタントの仕事を始めた。今年で早いもので15年目になる。かつて人事系コンサルタントとしては若造だった私も今では年配のほうになった。かつては人事系に限らず、経営コンサルタントは40歳代以降が中心だったが、今では30歳代が中心で、20歳代の方も多く、むしろ若くて少し過激なほうが喜ばれるようになり、いぶし銀のように老練な円熟味を帯びた人はあまり好まれなくなった。活躍している人事コンサルタントの中で私自身、長老とまでは行かないが、高齢のほうになってきた。この15年間、私は経済団体で企画調査に従事したり、一般企業の人事部や企画部に勤務したこともあるが、一貫して経営人事に関する仕事に携わってきた。この間にすっかりと時代は変わったし、主流となる人事管理の考え方も一変してしまった。よく労働市場が売り手市場、買い手市場になったという話がある。もちろんそれもあるが、そのようなものだけでは説明しきれないものがあるように思われる。

ところで、人事管理の中心的な課題に職能資格制度がある。この制度ほど毀誉褒貶相半ばするものも少ないかもしれない。かつては手放しな礼賛論があり、この制度の導入整備が急務とされた。しかし、今では地に落ちて見る影もない。職能資格制度が諸悪の根源という主張すらある。同じ制度がどうしてこのような対称的な評価を受けるのか、疑問を持つのが普通だろう。単に時代の変化だからというのでは十分ではないはずだ。過去20年ほどの来歴をその時の出来事共に簡単に振り返ってみたい。

私が人事コンサルタントになった90年当時、職能資格制度は絶対視されていた。経営者にも支持されており、一方、労組からも納得感があり、人事処遇の基本的なプラットフォームとして強く支持されていた。とりわけ、私は都市銀行の経営相談所から派生したシンクタンクに所属しており、この団体の上層部と、職能資格制度の理念的なリーダーである楠田丘氏はそれなりに懇意にしているということだった。楠田氏は人事管理の神様のように思われていたし、すべてのコンサルティングファームの、あたかも胴元のようなイメージだった。私自身、若かりし頃、そんな雲上人たる氏が講演する機会があると、緊張した面持ちで氏の朗々とした弁に聞き入っていし、楠田氏の書いた本を聖典のように読んでその理念に忠実な制度設計を先輩コンサルタントと一緒にやっていた。またその頃、滝澤算織(たきざわかずお)氏の本も必読のものになっていた。同氏の書かれたものは、やや小手先ではあったが、創意に富んでいて制度設計に携わる者には大変参考になったように思う。業績成果配分やポイント方式の退職金など私自身も学ぶことが多かった。

ところが、90年代半ばになると、職能資格制度への批判的な声が目立ち始め、「能力を開発しただけで昇給・昇格させても意味がないではないか」という指摘が出てきた。もっと成果や業績を重視したほうがいいのではないかという指摘がいろいろな人になされていたし、もともと楠田氏が指摘している「顕在能力」と「潜在能力」を引き合いに出して、顕在能力でもだめだ、能力が顕在した成果、実績があってこそ評価すべきではないかという意見がよくあった。また経営の立場から人件費を抑制する視点が大事だというコンサルタントもいた。職能資格制度は能力のある人を早めに昇格させ、そうでない人を足止めさせるためのものだろうかと私自身、考えたこともある。というのも、所属したシンクタンクが経営不振になり、昇格は停止し、全員の人事考課を一律最低評価にするという話を突き詰められていたからだ。

やがてその頃、目標管理を併用した成果志向の強いマネジメントが流行ってきた。実務界から転進した中嶋哲夫氏がそのリーダー的存在で、実際的なマネジメントや経営計画にも連動させやすい目標管理織り込みの人事制度が一時的にはブームとなった。今でも新制度導入の際は、目標管理が必須のアイテムと思い込んでいる場合が少なくない。しかし、目標管理万能論もほどなくして空中分解し、職能資格制度に対する補完的な役割をほとんど果たせないまま、この制度自体も閉塞感が募ってきた。これに対して旧来からの職能資格制度の理念を基調に人事・賃金管理を主張していた人に久保淳志(くぼじゅんじ)氏がいる。氏は年俸制にも成果主義にも当初は批判的だったが、やがて少ない原資での定昇管理などを解説するようになった。

企業は長引く不況でリストラを余儀なくされ、すっかり元気を失ってしまった。そうして90年代後半になると、年俸制やコンピテンシーが登場してきた。この時期になると、ひとつには外資系コンサルティング会社が日本で目立ってきた。ヘイグループ、ワトソン・ワイアット、ウィリアム・マーサーなど人事を専門にするコンサルティング会社が登場してきて、日本型の人事管理ではグローバル化時代に生き残れないと舌鋒鋭く語った。その頃、ワイアットの代表だった高橋俊介氏が人気を博し、経営サイドの視点に立ち、人間尊重を左派とするなら、最右翼のような論陣を張って異彩を放っていた。ところが、その氏もやがて第一線を退き、評論界ないし学界に位置する人と見られるようになった。また太田隆次氏が海外に詳しい人事コンサルタントとして脚光を浴びたし、氏の業績は石井脩二氏のような生粋の学界人にも先駆的なものとして評価されている。やがて今日に至るまでコンピテンシーが注目され、つい最近まで隆盛を誇ってきた。しかし、コンピテンシーが人事管理を画期的にソリューションするものでもなければ、日本におけるコンピテンシー論議はそもそも偏ったもので、根も葉もない淫祠邪教のようないかがわしさをぬぐい切れないことに私は一貫して警鐘を鳴らしてきた。コンピテンシーは少なくとも職能資格制度を補完したり代替するようなものではないことは明らかだと考えている。

こうした経緯をたどりながらも、一貫して職能資格制度は人事管理制度の中心的位置を占めてきた。最近では「職務等級制度」や「ジョブ・グレード制」という言葉も聞かれるが、このような名称変更をしても多くの点で差がなく、人事処遇のプラットフォームを作り、そこに職員/社員を載せて管理していくということには何ら差がない。しかも、職能資格制度がなぜうまく行かないか、どうして同じような轍に嵌って失敗してしまうのかについては何らの批判的な検討もなされないまま推移してきている。つまり、名称を変更しても亡霊のように居残って温存されているのがこの制度なのであり、他のもろもろは一切合切が幽霊みたいなものに過ぎなかった。

誤解を恐れずに言えば、職能資格制度は根本的に機能しない多くの問題点を抱えている。つまり、理論的な矛盾や破綻がこの制度を必然的に成功させないように思われるのである。本稿ではこの問題について明らかにしていきたい。


職能資格制度とはどんな制度か?

そもそも職能資格制度とはどのようなものなのか。この点を整理しておく必要がある。まず職能とは職務遂行能力のことであり、これについて資格等級が設定される。9等級がスタンダードで適宜、組織の規模(従業員数)などで増減される。またおおむね3つの階層が設定される。ジュニア、シニア、マネジャーという3階層が一般的である。この等級は基本的に職位に対応しているが、直結しているわけではなく、昇格が先で昇進が後となっている。昇進とは職位につくことを意味している。また等級ごとに対応する年齢の目安や在級年数が示されることもあるが、これらもJ階層以外は撤廃されていることが多くなってきている。しかし、格付けは経験年数にされることが多く、どうしても年功的な運用が避けられなくなってしまう。実在者の昇格も中心化傾向が生じてあまり処遇差がつかず、年功的に決まっていくことが少なくない。

階層と資格等級


階層
資格等級
M
9
8
7
S
6
5
4
J
3
2
1

従業員(職員、社員)はすべていずれかの資格等級に格付けされ、上位の等級になることを昇格というが、昇格するためには、在級する資格等級に期待される職務基準に照らし合わせて人事考課が行われ、人事部や経営会議などの内部機関に昇格審査されることになる。

賃金システムに関しては、等級ごとに賃金テーブルが作られ、それにしたがって賃金が決定されるので、どこの資格等級に在級しているかは当然の事ながら職員/社員の関心事になってくる。賃金は、年齢や勤続年数によって決まる生活給のほかに、職能給がテーブルとして設定されている。この運用については精緻な賃金運用のルールがあるが、ここが職能資格制度のコアとなっている。しかし、定昇とベアを分けたこの昇給運用ルールも定昇なき時代に突入し、その運用が行き詰まってきてしまってきている。また賃金制度のことだけ言えば、賃下げをするには困難さを伴うし、通常の運用を重ねていくと、職能給自体が傾斜勾配の急な賃金に変容してしまうという問題もある。職能資格制度がどのようなものかについては、職能要件書や職務基準書、賃金テーブル、人事考課表などの部品を示して解説したほうがいいが、紙幅の関係もあるので、本稿では職能資格制度に関する制度概要は最低限に抑えておく。この点は適宜、関連書を参照されたい。


職能資格制度の根本的な矛盾はどこにあるのか?

職能資格制度にはいくつかの矛盾ないし根本的な問題点があり、現場実務では綻びを見せている。こうした綻びに対してしばしばそれは考え方が間違っているのだと指摘されることが多い。目標管理の運用で成功している例はほとんど皆無であるといわれているが、その場合もコンサルタントは正しいやり方を指導すると言い出す。しかし、同じような不具合や欠陥が非常に高い確率で生じるならそれはその理念ないし設計思想自体が間違っているか、現実的ではないことを前提に制度の基本部品が作られていることになるだろう。その意味で、職能資格制度の破綻も目標管理の失敗も同じ穴のムジナである。

職能資格制度には、具体的に次のような矛盾ないし問題点がある。これらは、「現象としての職能資格制度」がうまくいかないことを意味しており、教科書ではこれらは誤った運用であるとか、考え方が根本的に理解できていないとされることもある。しかし、かなりの高い確率で生じていくこれら現象が共通のものとなっていることも無視できない事実である。

① 職能資格制度は育成-評価-処遇が三位一体となったトータルなシステムである
職能資格制度では評価した結果が処遇に反映され、育成のための評価が行なわれることになっている。しかし、処遇に結びつけると、評価は項目ごとに弁別的ではなくなり、一義的に決定される傾向が強くなる。つまり、ダメな社員は何もかもダメに見えてしまい、有能で高業績の社員はオール5のような評価になってしまいがちなのである。ゆえに、フィードバックはネガティブなものになるか、問題行動を見逃すことになってしまう。処遇に結びついた評価なので、少々のことは見逃してしまうことになってしまうことにならざるを得ない。また処遇が改善されない場合、つまり昇給も昇格も見送られると、評価されていないことを意味するメッセージを送ることにもなる。処遇と評価をセットにすることが大きなネックになっているのである。

② 職能資格制度には適切な格付けの仕組みがない
職能資格制度では能力評価の仕組みがありそうで実はないので、実際にはすでにもらっている賃金を所与の持ち点にしてスタートする。つまり、すでに高い報酬をもらっている場合は、高い等級にならざるを得ないし、低い賃金水準の社員は低い等級になってしまう。その結果、事実上、男女別になっているコース別管理制度を併用するなどして現状の賃金分布を所与とした格付けにせざるを得ない。職能資格制度における考課制度は直属上司が行なうものであり、格付けの仕組みではない。格付けシステムが組み込まれないまま、評価シートだけが踊ってしまうので、制度運用していくうちにダッチロールしてしまうことが少なくない。

③ 年功賃金を解消するはずがますます年功的な傾斜を高めてしまう
職能資格制度において職能給では、上位等級ほど習熟昇給のピッチが高い。ゆえに年功の高い人は高い等級に在籍するだけで昇給してしまう。数年運用していると、上位等級がどんどん昇給し、Mクラス以下の等級在籍者は昇給が停滞してしまう。さらに下位の等級在籍者はほとんど昇給しないことにもなりかねない。もともと下位等級(つまりJ階層)や中位の等級(つまりS階層)では生活昇給が中心なのだが、成果主義の名の下でこれらの昇給が抑制され、結果的には中高年層の報酬が上がってしまうことにもなる。ただ、これは賃金制度を教科書通りに設計してしまっている場合の現象である。応用的な運用をすると、この通りにはならない。また上位の資格等級の者は本来的にはその会社の功労者ないし高業績者である。ゆえに人事考課は標準を超える評価を得ることが少なくない。このため、上位資格の在籍者はますます昇給し、中堅層は意欲低下し、離職する者も出てくる。職能資格制度を導入した結果、次世代を担う中堅層が次々に退職し、経営層に近い管理職が膨らんだという事例は少なくない。

④ 人事考課は相対評価ではなく絶対考課で行なう
人事考課の基本は絶対考課になっている。相対評価は厳しく排されている。しかし、絶対考課を貫徹することは難しく、実際には相対的な評価で運用がなされることが多いし、絶対考課ゆえに評価が寛大になってしまうことが少なくない。不況が長引く中で、人事考課の評価段階は3ないし4に8割以上が分布している例がおおむね一般的である。楠田理論では、この分布状態が適正かどうかについては見直したりチェックする論点設定はなく、自社での「良識ある」運用に委ねられている。加点主義で評価を行なうことが楠田丘氏に提唱されたこともあったが、その結果、ますます評価は甘くなり、幼稚園の運動会で園児全員が手をつないでゴールするような光景が職場にも見られることにもなった。もちろん、このようなことを、楠田氏はじめとする人事コンサルタントが提唱したわけではない。しかし、現象としてはそうなってしまっているのである。

⑤ 成績考課とは直属上司の示す期待基準を超えたか超えなかったかで行なう
人事考課では、直属上司の設定したバー(期待基準)を超えたか超えなかったかで評価される。直属上司は部下に仕事を割り付けているので、その中身が最もわかるだろうという発想である。しかし、「期待し要求する水準」というのは実はあいまいで、何ら確たる根拠がないものである。この部分に評価自体のあいまいさと現場の不安を残して制度はスタートせざるを得ない。明らかに超えないような社員は1であり、評価に迷うことはあるまい。しかし、ゆうゆうと超えれば4、何とかぎりぎり超えたら3といっても、それは上司の決めたバーの高さ次第であるし、超えたかどうかも胸先三寸であろう。しかも、バーの高さも上司が決めることができ、超えたかどうかも上司次第というなら、上司の裁量で1段階ではなく、2段階でも上げ下げできることになる。これでは上司との人間関係。また部門内の政治的な要因で人事考課が上下していくことも少なくない。さらにここで加点主義が加わると、上司の手心が出てきて、なおのこと甘い評価になっていく。要するに、上司と部下のお手盛り評価になってしまいかねないのが実態なのである。

⑥ 能力考課は等級ごとに設定された全社共通の職能要件に照らし合わせて行なう
職能資格制度では、全社共通の職能基準が設定されている。しかし、それはA4で1枚か2枚程度の定義だけのものがほとんどで抽象度の高いものである。ゆえに、職能要件を参照したところで、評価が的確になるわけではなく、評価者の見識に委ねられている。見識といえば言葉はきれいだが、人事から言えば現場任せ、最悪は丸投げ、現場サイドでは恣意的な判断以外の何ものでもない。事実の確認から要素の選択、段階の選択に至る評価プロセスはかなり抽象度が高いものであり、実際に評価者研修を行なっても習得できるのは2-3割に満たない。また等級ごとに高さが変わってくるということを十分に織り込めない結果、上位等級ごと評価段階が高く、下位等級では中程度以下の評価段階に多く分布していくことにもなりかねない。つまり、上位資格の者は何となく高く評価され、さらに昇給し、中堅以下はいつまでも昇給できずに停滞する。多くの企業で20歳代の社員が初任給からまともに昇給せず、そのまま離職してしまうケースも少なくない。

⑦ 長年にわたり個人の成績を見つめ、評価の見誤りを防ぐためにもすぐに昇給させない
職能資格制度では、小刻みに昇給させたり賞与でもわずかな差がついていく。しかし、わずかな差が昇格での差になり、やがて昇進での格差を予感させる。ゆえに、右肩上がりの時にはこのようなわずかな差がそれなりの刺激となっていく。しかし、小さな格差ではもはや適度な刺激にならず、また処遇差の小さいことが貢献度の大きな実在者に不満を起こさせることにもなる。また組織の中堅層以下の実在者はいつまでもわずかな昇給しか享受できず、低い賃金水準のまま推移してしまうことになる。

⑧ 能力は生涯にわたって伸長し天を衝く
職能資格制度での能力観は生涯にわたって伸長していくという楽観的なものである。高齢化時代を迎えてある見方をすればヒューマニスティックかもしれない。しかし、実態はどうだろうか。例えば、板前の場合、仮に高校卒業後になったとして、20歳代が習熟期で、30歳前後が最も実力が発揮できる円熟期だそうである。しかし、その後は体力の低下と共に活躍度合いは低下していくと知人の板前は語っていた。キャリア形成の中期以降(実年齢のイメージで30歳代-40歳代後半)、能力も思い切り伸長するというふうにみなさないと実態としての賃金カーブが説明しきれない。もとより賃金カーブと習熟カーブが乖離しているのに、両者がリンクしているというみなしは、三位一体仮説からも避けられない職能資格制度の理論的矛盾なのである。

⑨ 考課者訓練で人事考課は必須でそれによって現場の評価は適正化される
考課者は部下の評価を行なうに足る見識を持つべきで「目線合わせ」のための考課者訓練を行なうことで評価の納得感が得られる。効果のない研修を行なうのは理屈のうえからもおかしなことである。しかし、考課者研修は、米国での調査研究でもほとんど効果が薄いことが実証されている。結論だけを言えば、多くの識者は評価者研修の効果が小さく、表面的なものに留まるとしている。わが国における評価者研修への信頼や効果性の問題を職能資格制度の問題だけに帰着させることは酷であるし、困難でもある。しかし、少なくとも考課者訓練/評価者研修の限界への考慮ないし理論的考察が全くなされてこなかったことは反省すべきであろう。


職能資格制度運用を困難にする環境変化とリスク

職能資格制度を取り巻く状況の変化に次のようなことがある。思うに、これらの変化は制度が意味あるものとして存続していくには前提条件の覆しを迫るものである。そしてさらに次なるリスクが予測されるのである。

<職能資格制度を機能させる前提条件の覆しと予想されるリスクに関する仮説>

① 企業側に生涯にわたって従業員を雇用するという基本スタンスがなくなり、報酬の後払い方式への不信感が従業員に蔓延している。しかし、職能資格制度を運用して賃金改定をしている限り、JないしS階層の実在者は昇給機会が少なくなり、ピンポイントで特別昇給させるなどの運用でもしない限り、年功賃金が温存されるだけではなく、将来への昇給期待も持てないことから若年層はモラールダウンし、離職者が頻発してくるのである。実際、成果主義と職能資格制度が結びつくとき、モチベーション低下による若年層の離職がひとつの大きなトレンドになっているように見受けられる。この場合のモチベーション低下は将来へのイメージに幻滅することに起因するものだと思われる。

② 少ない原資を効果的に配分しインセンティブを持たせるとしても昇給原資がなくむしろ賃下げする時代になっている。職能資格制度は痛み分けの仕組みとしては優れている。しかし、昇給停滞がモチベーション低下をもたらすため、組織内の不満を高め、実在者全員を抱えてやっていくことは困難となってくる。なぜなら、職能資格制度は小さくても格差をつけることで刺激にし、しかもその差が広がることを予感させることで動機付ける仕組みなので、定昇をやめれば機能しなくなるからである。職能資格制度のある会社で成果主義が進められるとき、業績低迷を経て一気加勢のリストラが避けられなくなってしまう。つまり、残すか残さないかをどこかで決めて、モチベーション問題を一気に解決せざるを得なくなる。処遇差をなるべくつけない仕組みとして凋琢された職能資格制度は貢献度の低い者にもかなり優しいセーフティネット的な仕組みである。残すかどうかも迷う者にまで手厚く処遇する仕組みが結局、幅広い層のモチベーション低下をもたらすというリスクがある。

職能資格制度の持つ陥穽は突き詰めれば、独自の能力観の非現実性、直属上司による人事考課への過剰期待と実態としての現場における評価能力の脆弱さ、さらにキャリア・イメージを長期スパンで持たせ過ぎること、などにあったように思われる。つまり、経験年数織り込みの「能力」とはたぶんに年功的なものを含まざるを得ないし、言い換えると、蓄積された貢献実績が職能の主たる要素となっている。また直属上司による絶対考課は寛大化傾向を免れずどうしても5段階の4ないし3に8割方の実在者を抱えることになる。高止まりの評価結果は、成果主義改革の求める成員絞込みというニーズにも堪え切れないことになる。もとより約束として守れそうにない長期の約束手形を振り出すことは、闇金融的な詐欺的行為か、会社の倒産を予期しながら支払の約束をする背信的行為と映りかねない。
職務等級制度やジョブ・グレード制などが論議されても、そこで出てくる論点は上位資格等級への昇格に定員を設けるか否かという点のほかは、あまり本質的な問題点に迫れていないように思われる。職能ではなく職務という言葉が好んで選ばれるようになったのは、どうも米国では職務(job)が基本になっているらしいという認識なのかもしれない。しかし、米国ではそんなふうになっているわけでもないし、名称やコンセプトで米国にまねても問題の所在が異なる次元にあるので、本質的には事の解決を導かない。そして職能資格制度は実質的に温存され、何も変わらないまま運用されているのである。痒くもない患部を掻きながら治ったはずだと思い込んでいる。喉もと過ぎれば熱さ忘れるというが、誤診に基づくいかがわしい療法で本当に治ったと勘違いしているのは救いなのか、愚かなことなのか。実態としてはお手盛りし放題になっていく現場任せの人事考課、項目さえ決めずに罫線だけのシートで現場に丸振りする目標管理型の業績評価、そしてさらにコンピテンシーという言葉が踊っただけの評価シートの配布、こんなものでは会社がよくなることはない。人間や組織の本質を見つめた正しいアプローチが強く求められているのである。
本稿における批判的検討を踏まえて次回は、人事評価を中心にした職能資格制度の再構築について解説していきたい。